【教養人のための『未読の名作』一読ガイド】老残 [著]宮地嘉六
[レビュアー] 川本三郎(評論家)
大正から昭和にかけての私小説作家、宮地嘉六(一八八四―一九五八)は今日では忘れられているかもしれない。
それでも少数ながら愛読者はいる。漫画家のつげ義春は『芸術新潮』二〇一四年一月号でのインタヴューで、好きな作家のひとりとして宮地嘉六の名を挙げている。地味好みのつげ義春らしい。
嘉六は佐賀市の生まれ。父親は旅館を営んでいた。十代の嘉六は、父の後妻に冷たくされ、家を飛び出した。佐世保の造船所で職工になり、以後、呉、東京、神戸を転々とした。
作家となったが、職工を主人公にした小説は広く読まれず、貧乏暮しが続いた。結婚したが、奥さんは幼ない子供二人を置いて家を出てしまった。以後、再婚せず男やもめとして二人の子供を育てた。
貧乏暮しを描いた小説が多いが、決してじめつかず、飄逸なユーモアがある。
「老残」は、終戦直後の話。子供二人を罹災者寮に預け、六十歳を過ぎた作家は焼跡でバラック暮しをしている。その場所が、総理大臣官邸の崖下というのが愉快。当時は焼野原だった。
収入の当てもなくその日暮し。ある日、引揚者の女性のために判子(はんこ)を作ってやったのをきっかけに、判子作りを思いつく。子供の頃、近所の判子屋で手ほどきを受けたことがあった。
霞ケ関あたりの路上で、易者や靴磨きと並んで判子屋を開く。これが思いの他当たり、なんとか食いつないでゆく。
実際は大変だったろうが、小説のなかの「私」は、いたってのんきに構えている。どこか仙人のよう。いま読むとまるでつげ義春の漫画の主人公を思わせる。世を恨むでもないし、嘆き悲しむでもない。わが道を往く飄々とした暮しぶりが、読者をなごませてくれる。
最後、思いがけず手に入ったウィスキーでいい気持になり、自分で自分の弔辞を読んでみる。「君は天才ではなかったが、よく六十五歳の長きを生きた」。
少数ながら嘉六好きはいるのだろう、慶友社から全六巻の著作集が出版されている(一九八四年―八五年)。表紙に自作の印があしらわれている。