隠蔽された死に向き合う青春ホラー小説

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黄泉がえり遊戯

『黄泉がえり遊戯』

著者
雪富 千晶紀 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784041035597
発売日
2015/12/24
価格
1,980円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

隠蔽された死に向き合う青春ホラー小説

[レビュアー] 石井千湖(書評家)

 つい先日、身内の葬儀に参列した。明るい斎場、穏やかな表情に整えられた遺体、故人にまつわる感動エピソードを紹介する司会。現代の葬式は、死の匂いを極力薄めることを目指しているように見える。自宅で行う昔ながらの葬式よりもずっと負担は少なく、淡々と進めることができて、遺族としては助かったけれど、どこか現実感がなかった。むしろ虚構を通したほうが、死の重さにちゃんと向き合えるのかもしれない。

『黄泉がえり遊戯』は、昨年『死呪の島』で日本ホラー小説大賞を受賞した雪富千晶紀氏の第二作。葬儀の最中に生き返った死者が、見知らぬ他人の死肉を喰らう。地獄絵のような場面で物語の幕は開く。舞台になっている経良町は、山間に位置する小さな田舎町。かつては鉱業で栄えたが、いまはさびれている。葬儀屋のくせに死体や血が苦手な古谷遼一は、連続して故人が甦る怪事件の謎を追う。イザナギ・イザナミの神話から梶尾真治の『黄泉がえり』まで、死者が蘇生する話はたくさんあるけれども、甦り現象を誰が始めたのかどんなルールがあるのかわからない遊戯として描いているところが出色だ。

 そもそも遊戯自体、死と再生をなぞらえているものが多いから。例えば子供時代に遊んだ「だるまさんがころんだ」。木や壁のほうを向いた鬼が「だるまさんがころんだ」と言っている間に、後ろにいる子供たちは動く。鬼が振り返ったときに体が動いていたら捕まってしまう。見つからないように鬼の手に触れられたら、すでに捕まっていた子も解放され、もう一度元の場に戻ることができる。古くから伝わる遊びに欠かせない「鬼」には、死者の霊魂という意味もある。幼いころは何の疑問も持たなかったが、鬼とそうではない子が分かれ、くるくると入れ替わる仕組みはよくよく考えると恐ろしい。

 本書の〈黄泉がえり遊戯〉は、隠蔽された死の恐怖と人間の醜悪な欲望をあぶりだす。前作でも著者は架空の島の風習を細かく作りこんでいたが、今回の遊戯のシステムも非常に凝っていて、実際にどこかの地方に存在しそうな生々しさがあり、ゾッとしてしまう。迷走する町興し会議、いつのまにか流れていた〈魂よび〉のコマーシャル、邪鬼を踏みつけた不思議な十一面観音像。すべてが死者の甦り事件につながっているのだ。

 否応なく遊戯のプレイヤーになってしまった遼一は、父を早くに亡くし、あくまでも病弱な母と高校生の妹を養う手段として家業を継いだ。日常的に死者を目の当たりにしながら、高校時代に体験した大切な人の死から目を背けている人物として造形されている。鬼から逃げる子供のように、悲しい記憶から逃亡していた青年が、怪奇現象に巻き込まれることによって、自らの問題に対峙せざるを得なくなっていく。

 彼が抱えている悩みは、全人類に共通するもの。他者の考えがわからない、ということだ。まず、妹の佐紀がわからない。小さいときは仲がよかったのに、いまは顔を合わせるたびまっすぐな敵意を向けてくる。兄妹はいつどこですれ違ってしまったのか。経緯が明らかになっていくところは切ない。遼一のトラウマになっている友人の死も、わからないことだらけだ。他人の感情が理解できないだけではなく、自分の気持ちもうまく伝えられない。コミュニケーションが成り立たないことに遼一は傷ついている。

 関係がこじれてしまってどうしたらいいのか見当もつかない。変わりたいけれど変われない。そんな葛藤を心に秘めているときに、生前とまったく違う人格になって戻ってきた人々の姿を見たら、リセット願望が芽生えても無理はない。遼一もある決意にいたるのだが……。

 死を強烈に意識することで、自分のなかにある思い込みで凝り固まった部分を壊し、新しい世界を切り開く。怖いけれど爽快な青春ホラー小説だ。

KADOKAWA 本の旅人
2016年1月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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