「わからない」からこそわかりたくなる言葉たち
[レビュアー] 鈴木裕也(ライター)
私たちライターは、わからないことをわかるようにするために取材に行く。本書の著者の髙橋秀実さんもノンフィクション作家だから、わからないことをわかるために取材に行くのが仕事である。しかし、髙橋さんの場合、わからないことをわかろうと取材しているうちに、新たなわからないことが次々と出てきて「謎の無限ループ」に陥ってしまうこともしばしば。「社会派」ならぬ「脱力系」と言われるゆえんでもある。
本書は、そんな「脱力系」ノンフィクション作家が「言葉についてきちんと考えてみる」ために、辞書などへの“取材”を通して、日本語を考えるノンフィクション。ところが冒頭から「考える」について考えて無限ループに陥ってしまう。
髙橋さんの考察を追うと、「考える」とは声に出さずに言葉を言うことであるから、「言葉を考える」とは「言葉を言葉で言う」ことだとなる。しかしそこで髙橋さんはふと思う。「『言葉を言う』と『言葉で言う』はほぼ同じことで、それが文中に重複しており、さらに『言う』といっても言葉以外は言うことはできないので、『言葉』も省略して整理すると、『言う』しか残っていないではないか」。まさに、考えれば考えるほど、読めば読むほどわからなくなってしまう、髙橋ワールド炸裂のノンフィクションといえる。
本書で取り扱う見出し語は「あ」「いま」「意見」「すみません」など三二語。考えれば考えるほどわからなくなりつつも、意外な語源や哲学的解釈に触れたりしながら、わからないなりの結論を導く巧みな展開は、まさに髙橋ノンフィクションの真骨頂。特に「才能」や「出世」などの言葉について考えた結論は、はなはだ逆説的ではあるが真実をついている。
そして、最後まで読み通すと、人はなぜ会話するのかという哲学的問題のヒントにたどり着く重層構造。ノンフィクションに限らず、何ごとも「わからない」ことから始まるという事実を教えてくれる一冊だ。