透明な語り口と深まる〈謎〉

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夜、僕らは輪になって歩く

『夜、僕らは輪になって歩く』

著者
ダニエル・アラルコン [著]/藤井 光 [訳]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/外国文学小説
ISBN
9784105901233
発売日
2016/01/29
価格
2,420円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

透明な語り口と深まる〈謎〉

[レビュアー] 野谷文昭(名古屋外大教授・ラテンアメリカ文学)

 舞台は、地政学的にはペルーを思わせるが、内戦状況などからすると中米でもありうる。著者のアラルコンは三歳の時に米国に移住しているから、読者はこの架空の国をことさら出身国ペルーと重ねる必要はないだろう。とはいえ、作品にリアリティーを付与するために、彼はペルーで盛んにリサーチを行い、刑務所を見学したりルポルタージュを手掛けたりしていて、それを溶け込ませることで作品に厚みを与えていることは確かだ。

 だが、書き出しから、舞台が重なる前作の『ロスト・シティ・レディオ』とはずいぶん調子が違っている。どこかボラーニョの『2666』の第一部を思わせる軽みと、語る歓びのようなものが伝わってくる。時系列で言えば、内戦が終わって最も悲惨な時期が過ぎ、偽りとはいえ平和と日常が戻ってきたことで、前作に張りつめていた緊迫感と恐怖感が薄らぎ、そして何よりも「旅芸人の記録」や「バイバイ・ブラジル」のように旅回りの一座の活動が語られていることが原因だろう。動きがあり、笑いがあり、また演じられる劇が枠小説として効果を上げているのだ。さらにこの旅は、バルガス=リョサが得意とする、都市と「国の最深部」を結ぶ働きもしている。

 前半は、政府軍の弾圧によって解散した伝説の劇団を再建し、自作の戯曲を再演しようとする座長のヘンリーの行動を中心に首都で、後半はわずか三人の劇団に加わった若者ネルソンの身に起こることを中心として、主に「T」という田舎町で物語は展開する。演じられる劇は独裁者小説のパロディーのような『間抜けの大統領』で、ヘンリーが、街外れに住む友人を訪ねようとしてオペルを運転しているときにそれを思いついたというのだが、『百年の孤独』誕生のエピソードを踏まえたこの話は、パロディーが通じる読者への目配せであると同時に、物語の虚構性を露にしてもいる。どうやら著者はためらわず面白さを優先させる自信を得たようだ。

 しかし、予想に違わず、公演は順風満帆とはいかない。様々なトラブルに見舞われ、劇団の存続すら危ぶまれる始末だ。とりわけ、ヘンリーと獄中生活を共にした若者ロヘリオが、刑務所が爆破されたときに死んだことが大きい。それが彼の身内に衝撃をもたらし暴力事件を生む。あるいはイクスタという女性を巡るネルソンと画家のミンドの確執が、劇団の運命を左右する。ネルソンが、ロヘリオの死を認めない老母のために息子の替え玉を務めるといった話や、元恋人で妊娠したイクスタの子の父親が誰かという話は謎めいている。ネルソンは、たとえ強制されたにせよ、なぜ息子役を演じたのか、なぜ自分のものではない赤ん坊の父性にこだわったのか。これが元で殺人事件が起きるのだから何とも不可思議だ。このあたりはガルシア=マルケスの『予告された殺人の記録』で語られる謎(ミステリー)と性格が似ている。しかも、あろうことかネルソンは、その殺人事件の犯人として投獄されてしまう。ここに働く力学の不条理さを著者はラテンアメリカ特有のものとして描きたかったのだろうか。

 この物語は『予告』に似て、「T」という田舎町の年代記(クロニクル)にもなっているが、語り手は一体何者なのか。注意深く読まなくても、読者はかなり早い段階で、「僕」が語り手であることに気づくはずだ。彼は物語の内容のほぼすべてを知っていて、それを読者に語って聞かせている。これも『予告』の「わたし」と似ている。しかも「僕」は「T」出身のジャーナリストで、登場する人物たちの多くと知り合いなのである。その立場を利用して、彼はインタビューを行う。こうして集めた人々の証言や記憶を「僕」はモザイクのように組み合わせていく。様々な過去が時系列に沿わず、行きつ戻りつしながら、より大きな物語を作っていく。アラルコンは先行する〈ブーム〉の作家たちをあまり意識していないようだが、この作品はむしろラテンアメリカの先行する作家や作品のエッセンスを巧みに吸収し、その上で創作した新たな物語として読むことが可能だ。これを分析した謎解き本が出てもおかしくない。だがこの作家の、接続詞や関係代名詞を用いないために速度があって淀みがなく、しかも透明感を感じさせる語り口は、〈ブーム〉の作家たちよりも先に述べたボラーニョに近い気がする。

 物語の中で印象的な場面は少なくないが、私が感動したのはヘンリー、ネルソン、ベテラン俳優のパタラルガが再会して祝杯を挙げ、『間抜けの大統領』をパロディーのように演じるところで、この歓びに溢れる場面があるからこそ、最後の悲劇が一段とその悲劇性を増すことになるのだ。

新潮社 波
2016年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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