『東京湾岸畸人伝』
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東京湾岸に生きる市井の人びとをそのままに
[レビュアー] 碓井広義(メディア文化評論家)
2014年、著者の『東京タクシードライバー』が第13回新潮ドキュメント賞の候補作となった。不倫に走っていた女性を叱った上で、交際を申し込んだ運転手。会津磐梯山まで納骨に行くと言って骨壺と共に乗り込んできた客。13人が語る本当にあった話は、この本が出なければ個人の記憶として消えていたはずだ。
しかも、著者はそれらを無理に驚くべき話や感動する話に仕立ててはいない。また自分という書き手の存在を隠すことも目立たせることもしない。主役は、あくまでも無名の、そして市井の人びとだ。それでいて一話一話に「人間って面白いなあ」と思わせるドラマがあった。
本書でもそのスタンスは変わらないが、職業で括るのではなく、エリアを東京湾岸としたことで特色が生まれた。いわゆる住宅街やオフィス街では、決して遭遇できない人たちと向き合うことができたからだ。
築地市場に「ナカちゃん」と呼ばれるマグロの仲買人がいる。父親がマグロの仲卸だったことから、高卒でこの世界に入った。丁稚奉公に始まる修業の日々を経て、番頭として頭角を現していくが、自分の店を持とうとはしない。「セリで勝てばそれでいいんですよ」と言うのだ。そこには鮨屋など客の要望にとことん応えようとするプロ意識がある。
また馬堀海岸には、元教員という経歴の能面師がいる。一流の腕を持ち、人間国宝の能楽師や狂言師に面を提供しているが、その半生は紆余曲折としか言いようのないものだ。学生運動、教員生活、デモに行き逮捕、不倫問題、ギャンブル、そして離婚。偶然出会った能面が、この男の人生を変えていく。
他にも横浜にいる最後の沖仲仕、羽田の老漁師、木更津の前住職などが並ぶ。彼らと接しながら、著者がふと自身が抱えている不安や弱さを無防備にさらけ出す瞬間が面白い。著者もまた東京湾岸に生息する、愛すべき畸人の一人だったのだ。