『鬱屈精神科医、占いにすがる』
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精神科医が心を病んだら? 痛切な叫びに満ちた一冊
[レビュアー] 大竹昭子(作家)
こんなアメリカン・ジョークがある。心の病に罹ったら、金持ちは精神科医に、若者はドラッグに、貧乏人は宗教に走る。効果は似たり寄ったりで、どれを採るかはその人の財布次第というわけだ。懐が豊かというわけではないけれど、ドラッグや宗教に走る度胸のない私はたぶん精神科医に行くと思う。
では精神科医が心の危機を感じたらどうするか。考えたことのない設問である。心の専門家だからといって、自分の心が病まない保証はない。いや、知らない間に他者の病を被ってしまうことのほうが多いかもしれない。
著者は何冊もの著書を出してきた精神科医。還暦を迎えて漠然と感じていた不安感や不全感が高じてくる。どの本も期待した評価が得られず、無力感と苛立ちに苦しむ。だがその症状を内科医に話すような気軽さで同業者に述べ立てるのはためらわれる。悩んだあげくに彼はなんと占い師を訪ねる。そこで問われるまま自分を語るうちに嗚咽してしまう。
生の不安を感じやすい人である。その原因は母親にあるらしい。美しく奔放だった母に認められたいという強迫観念、それが叶わない無念さ。人生における人間関係が「わたしと母」だけで成り立ってきたのを、六十を過ぎて自覚するのだ。
そんな彼にとって、占いに行くことはどんな意味があったのか。
「自己愛に満ち、恨みがましさと自己嫌悪とが入り混ざり、甘えが見え隠れし、あざとさと秘密主義とが葛藤している」自傷行為に近いものだったという。では、それを読む私たちにとってはどうか。他者をネタに書いてきた精神科医が自らを俎上に載せ、徹底して腑分けするという退路を断った行為に、辛いのは自分だけではないと励まされるだろう。とりわけ、加齢といういつ爆発するとも知れない時限爆弾を抱えた人には共感するところが多いはず。自覚は治癒への一歩である。