『レプリカたちの夜』
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パースペクティヴのゆがんだ世界
[レビュアー] 江南亜美子(書評家)
『レプリカたちの夜』は、第二回「新潮ミステリー大賞」を射止め、鳴り物入りで刊行の運びとなった著者のデビュー作である。しかし多くの読者は、ページを繰るにつれ「これはミステリーなのか」と疑問を持つに違いない。その疑念には、賞の選考委員である伊坂幸太郎氏があらかじめ回答を用意している。「とにかくこの小説を世に出すべきだと思いました。ミステリーかどうか、そんなことはどうでもいいなあ」。作品の強さが、ジャンル超越的に評価されたのだ。
主人公の往本は、動物のレプリカを製造する「株式会社トーヨー」の工場に勤める、一介の労働者だ。配属先は品質管理部。部長が謎の不在状態となって以来残業も多く、ある夜、工場内でシロクマと遭遇する。レプリカであればもちろん動くはずがない。だがそのシロクマは二足歩行し、あまつさえ往本を襲いもした。では本物なのかといえば、それもちがう。往本のいる世界では、野生のシロクマはすでに絶滅、動物園にわずか数頭の飼育が確認されるだけだ。
工場長からの特命により、同僚の粒山としぶしぶシロクマ調査を始めたあたりから、往本の身に不可解な出来事がつぎつぎと起こる。粒山に記憶がない交通事故での入院生活のさまを訊ねられたり、ドッペルゲンガーを見たり、何者かに殴られたり。一升瓶入りタバスコを手土産に家にやってきた粒山の妻と称する女から、夫の狼藉を訴えられたりもする。もうひとりの同僚、うみみずさんの奇行も目撃する。
面白いのは、いずれの問題も、きちんと解決されないままに放置されるという点だ。消火し損ねた火種がいつまでも燻ぶるように、世界は理不尽さを増していく。ついには例のシロクマが、新しい部長として就任するに至るのである。
ここまで読み進めてきた読者の心情を、登場人物のセリフになぞらえてみればこうなるだろう。〈「ていうか、なにからつっこめばいいのかぜんぜんわかんない」〉。
謎は徹底的に中断され、宙吊りにされる。登場人物は一貫したキャラクターを保持しないし、内的独白がバランスを欠くほどに続くかと思えば、それは不意に終わる。たとえばうみみずさんの、生命進化から宇宙までをカバーする長広舌のふるいかたは、どこか人間離れをしている。際限なき分裂。読者は、なんとか「筋」を追おうとするが、その試みを笑うかのように、物語はあらかじめ因果律を放棄しているのだ。
本作を「面白い」と感じるかどうかは、読者一人ひとりの小説観に依るのかもしれない。謎が用意され、それが解かれていく道筋の見事さこそミステリー、あるいは小説のキモと考える向きには、脳内に「?」が浮かぶ時間が続くだろう。しかし、全体を把握することのできない視界の狭さ(それはまるで角を曲がるたびに新しい町に迷い込むかのごとくスリリングだ)を楽しむといえばいいのか、主人公がつぎつぎと脈絡のない出来事に出くわしてしまうそのナンセンスぶりや、作品を支配するアイロニーのムードを面白がることができたなら、他では味わえない読書体験をもたらしてくれる。
ところで、主人公の往本は、超人的な能力の持ち主ともいえない平凡な人物であるのに、なぜ奇妙なほど不死身で、なおかつ健忘症のように記憶をところどころ失っているのだろうか。工場の敷地の外には、釣りのできる用水路とシベリア軍の基地があるとされるが、では往本のプライベートライフはどこにあるのか。
そうして読者は、ふと想像することになるのだ。往本らが工場でつくっているものは一体何なのか、と。
〈目の前にある黄褐色の泥溜まりが、かつて人間であったと想像できる人などいないだろう。ただのどろどろとした人間色の塊だ〉
物事を忘却してしまうこと、辻褄があわないことに無頓着でいること。忘れないこと、合理的で論理的に考えること。『レプリカたちの夜』という意味深長な表題をもち、一見ナンセンス小説の顔をしたこの作品は、つまるところ「人間とは何か」との大きな問いに触れようとしている。作品が私たちに見せる世界は、いびつで、どこか恐ろしい。