長い回復期

レビュー

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メメント・モリ

『メメント・モリ』

著者
原田, 宗典, 1959-
出版社
新潮社
ISBN
9784103811060
価格
1,650円(税込)

書籍情報:openBD

長い回復期

[レビュアー] 片山杜秀(評論家・思想史家)

 余貴美子という女優をオンシアター自由劇場の芝居で何度か観ていた。舞台映えのする娘役。そう思っていた。が、そのくらいだった。その印象がだいぶん先に行った。一九八八年の映画、神代辰巳監督の『噛む女』。封切り直後、新宿で観た。余貴美子が噛む女である。永島敏行の不倫の相手である彼女はエクスタシーに達すると永島を噛む。噛まれると男は夢から現実に連れ戻される。何しろ痛い。性の陶酔境を彷徨してはいられなくなる。男よりも先にエクスタシーに達したところで、つまり男を逝かせる前に自分が逝って、そこで噛んで男を失速させるのが、噛む女。これは怖い。そんな女を演じて様になっている。余の奥深さに瞠目した。その少し前、彼女はオンシアター自由劇場を大谷亮介と脱退して東京壱組という新劇団を立ち上げていた。その公演に欠かさず通うようになった。余の役柄の広さに驚き、大谷亮介の強い灰汁にあてられた。東京壱組の座付き作者には、原田宗典や吉田秀穂がいた。原田の『分からない国』という、とても気のきいた風刺劇を心ゆくまで楽しみ、『火男の火』という、構えの大きい骨太でロマンティックな芝居に魅せられた。原田の名前を東京壱組で覚えた。

 原田の久々の小説『メメント・モリ』を読んでいて、『噛む女』のことや余貴美子の切れ長の目を思い出していた。この、多分に自伝的な私小説風の作品には、噛みつく女も余も出てきはしない。大谷亮介かと思われる俳優のOは登場するが、女優のYは現れない。でも、噛む女を連想させるような男を恐怖させる女性が、切れ長の目のヴィジョンを伴って現れる。正確には切れ長と断られているわけではないけれど、目がヨコでなくタテについているというのだから、やはりヴィジュアルとして想像されるのは切れ長である。そういう長いタテの目を持ち、したがって上下ではなく左右に瞬きをする妖怪のような女性の幻影に「私」は脅かされる。

 その「目がタテについた妖怪的女性」の原型は、学生時代の「私」の前に唐突に夢のように現れる女性訪問販売員である。彼女が「私」のトラウマになる。何しろ「私」の就寝中に勝手にアパートの部屋に入り込み、気が付くと横に立っていて「アンケートにご協力いただけないでしょうか?」と言ってくるのだ。彼女が押し売りするものは何か。高麗人参茶の顆粒である。一種のクスリだ。お湯に溶いて呑む。極めて高価。「私」には買う気もないし買う金もない。追い出す。それからすぐ、その押し売りと思しき女性を外で見かける。彼女の目はタテについている。そう見える。錯覚や幻とは思われない。そうとしか目に映らない。

 小説全体の真ん中すぎに出てくる挿話である。そのあとに、もうふたつ、目がタテについた別の女性の物語が続いてダメを押す。この「妖怪的女性」が『メメント・モリ』全体にとても利いてくる。煎じ詰めればタテの目とクスリである。タテの目とは何か。女性の顔に二つのタテの割れ目が現れ、その奥に瞳がある。これは女性の秘部の投影であろう。それは男性に死をもたらすものである。そこに挿入し、射精して、疑似的な死の経験を味わう。それがセックス。フロイトのエロスとタナトスの話だ。その女性器が女性の両の目に分身化する。目がタテになるということであろう。普通なら下半身にあるものが顔に現れ、しかもそれが性的欲望をかきたてるのではなく、単なる恐怖の対象になる。「私」の死と再生のサイクルに何か変調が生じている。母のせいかもしれない。妻のせいかもしれない。普通に果ててまた蘇るというあたりまえに心が付いていかない。死んでから再生できないというのでは不能の話になるが、『メメント・モリ』はそうではなく、うまく死ねない話なのであろう。満足を得られるか否か。「私」の女性恐怖が、学生時代の訪問販売員の記憶に結晶し、主題化する。それがタテの目。そのタテの目が「私」の人生を脅かし続ける。

 救いがなければならない。でもその救いに罠がある。救いが女性訪問販売員の押し売りしてきたものの変型として現れる。すなわちニセの救い。「高麗人参茶→クスリ→麻薬」という連想がここに機能する。うまく死ねなければ死を恐れ、死を忘れようとする。「メメント・モリ(死を忘れるな)」の反対である。そして「死を忘れる」ために人類が発見したのが麻薬だ。水に溶いて呑むこともある。顆粒の高麗人参茶と同じだ。たとえばアヘンは「一旦射精したら、二時間くらい精子がどくどく出っぱなし」な「果てしなく気持いい」経験を与えるものである。気持ちがいいのに果てないで死を忘れさせる。クスリに「私」は溺れる。

 しかしこの小説の題名はあくまで「死を忘れる」ではなく「死を忘れるな」である。「目がタテについた妖怪的女性」によるクスリの呪縛から「私」は解放されねばならない。死を思い出し、それと当たり前に向き合える心の強さを回復しなければならない。そのために動員されるのは身近な人の死であり、「流行作家時代」の死と隣り合った戦争の取材の体験であり、そして「三・一一」である。だが、それらだけでは足りない。最後にどうしても必要なもの。それは女の下半身のタテの目から生み落とされる新しいいのちである。

 一見とりとめなく書かれているように見えながら、無駄ひとつない。原田の東京壱組のための戯曲群のうまさを思い出す。でももっとずっと豊かな苦みがある。中村真一郎に『長い回復期』という本があるけれど、そんなタイトルでもいい。ほんとうにおいしいのは苦いものだ。

新潮社 新潮
2016年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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