言葉の亀裂に佇む作家のほれぼれする立ち姿

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言葉の亀裂に佇む作家のほれぼれする立ち姿

[レビュアー] 鴻巣友季子(翻訳家、エッセイスト)

 片岡義男がとうとう自伝的小説を発表した。一九六〇年、早大の二年生の頃から始まり、たった三カ月の貿易会社勤めを経て、一九七三年、作家として活動する頃までの四十四編。各編に氏の愛好する音楽が登場するが、全121枚のレコードのジャケ写がカラーで併載されている。

 作者の美学は各タイトルにも結晶していて、それだけで一個の作品のよう。例えば、「真珠の首飾りを彼女がナイト・テーブルに置いた」。片岡義男はこの語順でしかあり得ない。「彼女が真珠の首飾りを……」では英文和訳みたいだ。バーでグレン・ミラー楽団の「真珠の首飾り」を聞いた男が、ある恋愛を回想する。「はずしたそれを、彼女はナイト・テーブルに置いた。/じゃらじゃら、ごとがた、じゃらんじょこん、という音だった。彼女を見ていなかった俺は、その音だけを、いきなり聴いた」とあり、その音でふたりの仲はだめになってしまう。確かに真珠の首飾りは時にそんな哀しい音をたてる。また、年上の笑顔の静かな女性がソーダを飲む姿を矯(た)めつ眇(すが)めつ眺める「クリーム・ソーダは美しい緑色のフィクションだ」も粋の一言。「どこにもない人工の、ここにだけあるという種類の、フィクションだ」という作中の言葉は、片岡義男の世界を表してもいる。「雨の降りかたには、日本語だと二種類しかないんだ」という編は、雨の夜、知り合いの女性を偶然、シヴォレー・インパラで拾う。車に乗りこむ女性の所作の美しさ。

 江戸に通じるような粋の精神を、英語育ちの片岡義男は英語の発想と構文で表現する。だから、すんなりとはいかない。時おり不自然に感じる文章もあるだろう。しかしそれは作者があえて埋めずにいる「溝」なのだ。二つの文化と言語の間で、彼が異形のままじっと引き受けてきた亀裂なのだ。日本語から一番遠く、でも日本の姿を最も鋭く体現している書き手なのではないか。読んでいると、胸がつまる。

新潮社 週刊新潮
2016年3月24日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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