【教養人のための『未読の名作』一読ガイド】伊勢物語 [校注]大津有一

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伊勢物語

『伊勢物語』

著者
大津 有一 [著]
出版社
岩波書店
ISBN
9784003000816
価格
562円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

【教養人のための『未読の名作』一読ガイド】伊勢物語 [校注]大津有一

[レビュアー] 渡部昇一(上智大学名誉教授)

 高校の国語の時間に菅原七郎先生――秋艸(しゅうそう)道人の講筵に列したことを誇りにしておられた――が、「伊勢物語は本当の教養の書なんだ」と言われたのが妙に頭に残った。戦後のこととて“教養”という言葉に特に魅力があったからであろう。しかし教室で伊勢物語を教えてもらうということはなかった。

 この物語の成立にはいろいろ意見があるようだが、そんなことは学者にまかせることにして、在原業平の自伝的歌物語としてよいであろう。

 それは正に驚くべき物語である。百二十五段、テーマから言えばすべて恋物語か、密通物語か、乱交物語なのである。これがどうして第一級の古典なのか、“教養”の書なのか。「何だ、ポルノじゃないか」と言う人もいるかも知れない。

 しかしそうではないのだ。すべて男女の微妙な心の動きを描いているのが主で、性行為が主なのではない。しかもすべて歌によって、しかも後世に残るような多くの歌によってしめくくられているのである(『古今和歌集』にはこの中の六十二首が収録)。

 菅原先生の言葉のように、長く読み継がれてきており、日本人の“教養”となってきていることを、私は偶然、源義経の愛妾静御前が、頼朝に強制されて鎌倉八幡宮で舞を舞った時に、「静や静 静のおだまき くり返し 昔を今になすよしもがな」と唄って満座を感動させたその唄が、伊勢物語の第三十二段の上句の五文字を変えただけのものだと知った。これは当時の白拍子(藝者)の教養を示すものであろう。

 江戸時代の落語に百人一首の「ちはやぶる 神代も聞かず……」をタネにしたものがあるが、この歌も伊勢物語の第百六段に出てくる歌である。また、今日でも、春先になると櫻の開花情報が毎日のニュースに出て、日本人の心をそわそわさせる。業平はすでに「世の中に たえて櫻のなかりせば 春の心は のどけからまし」と言っている。しかし唐という大帝国の傍の国にありながら、漢語を使わないで文学作品を残すという当時の日本人の「やまとごころ」に感銘するのである。

新潮社 週刊新潮
2016年3月24日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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