『どちらであっても』
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臨床医が現場でさぐり続ける二者択一ではない答え
[レビュアー] 渡邊十絲子(詩人)
医療の現場には、いつも「難しい判断」がある。高価な新薬を使うか使わないか。体力を奪うほど苦痛の大きい治療を行うかどうか。命の終わりを看取る場では、それがなおさら顕著になる。患者が死に直面していて意識がなかったり、認知症だったりすれば、判断は本人以外の誰かがしなければならない。
著者は、地方の病院の勤務医として長年働き、五十代になって独立、十九床の診療所を開いた。地域の人々の、人生の最終章の過ごし方をともに考え、正解のない問いに取り組みつづける。
この本は、その診療所の日常をとおして、「Aか反Aか」の選択を日々つきつけられる臨床の現場を描きだしていく。重圧や息苦しさを書くときも静かでユーモアのある文章が、医師の治療と患者の生活の間に生じるあつれきを溶かしていくように感じられる。
がんを告知するかしないかという、「Aか反Aか」の選択はいつの時代にもある。昔は、告知しないのが正解だった。がんを疑う患者に、必死で嘘をつきとおすのが常識だった。しかしやがて、がんは告知するのが正解とされるようになった。現在では、がん患者のほとんどが告知を受け、治療方針や今後の人生設計を自分で考えられるようになった。
一見、よい時代になったようではある。しかし、どちらも「正解」以外の解答がほとんど許されていない点で、息苦しさはおなじなのだ。著者は、告知したともしないとも言えない、つまりAでも反Aでもない道をさぐっている。二者択一にこだわっていると見えなくなるものが、そこに姿をあらわす。
「Aか反Aか」という対立の構図を捨てて、雑多で奥行きのある背景すべてを視野に入れたとき、「A」をとり囲む世界全体としての「非A」が見えてくる。それは人生の選択に対する納得へとつながり、ひいては「よい死」へと人を導いていくようだ。