平成日本特有の「セカイ系で中二病」

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「反戦・脱原発リベラル」はなぜ敗北するのか

『「反戦・脱原発リベラル」はなぜ敗北するのか』

著者
浅羽 通明 [著]
出版社
筑摩書房
ジャンル
社会科学/政治-含む国防軍事
ISBN
9784480068835
発売日
2016/02/08
価格
946円(税込)

書籍情報:openBD

平成日本特有の「セカイ系で中二病」

[レビュアー] 平山周吉(雑文家)

『「反戦・脱原発リベラル」はなぜ敗北するのか』は、心やさしき悪意と冷笑に満ちたリベラル派批判本である。おたく的感性を持った横丁の御隠居の長広舌に、リベラル派に同情的な質問者を配した対話篇である。「反対するのは冷笑の次くらいにたやすいことだ」というのが御隠居のスタンスだ。平成日本特有のリベラル言説のむずがゆい能天気をいちいちあげつらってゆくさまは読ませるが、それだけでは終わらない。実務家的知が必要だと、説教を垂れることも忘れない。昨今の論壇状況をネタにして新作落語を練り上げたかのような、芸のある語り口が、広い世間にも連れていってくれる。徳のある一冊である。

「みえない大学本舗」を主宰する浅羽通明は、四半世紀前の知のガイドブック『ニセ学生マニュアル』の著者である。あの頃の学生たちもいまや四十代に達している。五十代半ばになった浅羽も御隠居の老け役が板についてきた(作務衣姿の著者近影は裕木奈江が撮影している)。それらのことを想起すると、今度の本は浅羽たちの世代による、デモで楽しく盛り上がった先行世代と後続世代への批判という性格をも帯びている。

 浅羽はデモ参加者たちを「三ちゃん二生」と名づける。「三ちゃん」は三ちゃん農業という古い言葉から思いついたもので、「ばあちゃん、じいちゃん、母親、そして若者子ども」を指し、労働の現場を離れた人たちである。「二生」とは、学生と先生の「二生」で、日本の大学という特殊な環境に浸かっている種族である。つまり、全共闘世代と大学人ということになる。在野の御隠居にとっては、批判は大いに遣り甲斐があるだろう。

 浅羽御隠居はのっけから、リベラルが安倍政権に勝てない三つの理由をあげる。一つには、原発再稼働や安保関連法を撤回させる決定的なカードを持っていない。二つには、本当に勝ちたいとは思っていない。三つには、「命より大切なものはない」「あの戦争を繰り返すな」という常套句が生活者の実感からかけ離れている。これじゃダメでしょ、と突っこみ役の質問者を追い詰めてゆく。

 浅羽御隠居は、おしゃれなデモの弱点をまず二〇一一年九月一一日新宿での公務執行妨害による十二人逮捕(五人が起訴猶予、七人は釈放)の余波に見る。逮捕を契機に、盛り上がりは一旦凋んでしまう。「権力への怒りに火をつけてさらにデモがエスカレートするどころか、それがハードルとなって収束へ向かってしまった事実に注目します」。そんなのは非暴力ではなくて、「へたれ」だとも挑発する。SNSやネットを使ういま風な敷居の低さが歓迎されたが、「参加のハードルをできるだけ低くしたから、ようやく集まった人々だった」。デモの楽しさ、敷居の低さを持ち上げるのは、むしろ自分たちの非力を宣伝しているに過ぎない。権力にナメられるだけ、というわけだ。

 相も変らぬ大学知識人の二重構造も批判される。高橋源一郎がSEALDsの教え子たちに伝授したのは丸山眞男の技だった。丸山が講演「政治的判断」で指摘した「大きな反対運動が起きると、当局は、その法律の運用に慎重になり、法案の実効性は失われていく」、法案成立では勝ち負けは決まらないという論理だ。永遠に敗北宣言はしなくてすみ、いつまでも自分が正しいと言い募れる仕組みである。リアル現実世界での敗北をごまかして、バーチャル脳内観念世界での勝利を謳歌できるスグレモノだ。

 浅羽御隠居はリベラル派をおたく用語で「セカイ系で中二病」と診断する。「バーチャルのほうでは、たとえば平和国家で民主主義の日本が存亡の危機にあるのです。そして、自分こそがその運命を握る戦士=リベラル知識人だと思っている。/だからエヴァの使徒みたいな敵、たとえば集団的自衛権を容認する政府が繰り出した安保関連法案などが来襲したら、エヴァへ乗りこんで、もとい官邸前とか国会とかのデモへ参加して闘います」。これならデモは気持ちいい。

 浅羽御隠居の御託でもっとも感動的なのは、リベラル派の憲法論による仕分けの描写だった。「セカイ系のゲームと同様、善悪・敵味方が単純明快」で、いとも機械的に断罪してゆけるというのだ。「大東亜戦争という絶対悪と日本国憲法という絶対善との両極があって、何か政府の政策がこの前者の側だと判断されたら、反対する。ずっとそれだけやってりゃよかった。軍事の知識も国際情勢の最新情報も何も知らなくていい」。しかも戦争反対のその「戦争」とは、よりによって、この前の戦争で、「その勃発を防ごうと」奮励努力している。航空戦の時代に大艦巨砲にこだわった時代錯誤の日本軍と変わりないのでは、と釘をさす。反戦を訴えるなら、むしろシベリア出兵とかフォークランド紛争を研究すべきでは、というのはまったくの正論である。

 浅羽御隠居の話を聞いていると、日本のリベラルとは、リアルに触れることをあらかじめブロックし、大東亜戦争と日本国憲法によって城壁を張り巡らした鉄壁の布陣であることがわかってくる。

 そこに風穴を開けられるか。浅羽が散発的に持ち出すのは奇想の戦略である。自衛隊の戦死者一人が出るたびに覚悟の自殺者が一人ニコ生中継で自殺するロシアン・ルーレット作戦、原発の吉祥寺と千代田区への誘致、高学歴・高偏差値・実家の年収一〇〇〇万円以上の子息子女から徴兵してゆく累進徴兵制。ルサンチマンを埋め込んだSF的発想である。正論と奇想との振幅の大きさが、この本を単なるリベラル批判には終わらせていない。

新潮社 新潮45
2016年4月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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