「洋行学」を学ぶ「船中大学」だった
[レビュアー] 山村杳樹(ライター)
日本郵船が設立されたのは一八八五(明治一八)年。一八九六年、土佐丸が欧州航路の第一船として横浜を出航した。寄港地は神戸・下関・香港・コロンボ・ボンベイ・ポートサイド・ロンドンで、最終目的地はアントワープ。幕末の三回にわたる遣欧使節や明治維新後の岩倉使節団などの渡航はあったが、この航路の開始により欧州への旅が本格化する。欧州へ向かったのは、昭和天皇を始めとする皇族、板垣退助、伊藤博文などの政治家、東郷平八郎、乃木希典などの軍人、その他、研究者、作家、美術家、哲学者、詩人など夥しい数に上る。本書は、彼らの五感が捉えた「他者性」と、それが形作る「心象地図」を丁寧にトレースしていく。この船旅は「ヨーロッパの列強による植民地化の歴史と現在を、目の当たりにする旅」でもあった。著者は、欧州に赴いた日本人が吐露する「主調音のように束ねられてくる声」を「それはアジアを植民地化してきたヨーロッパの列強に対する憤りであり、植民地を統轄するイギリスへの感嘆であり、極東の帝国を目指す願望である」と書く。一九二七(昭和二)年、白山丸でドイツに向った和辻哲郎は、次々と姿を変えて立ち現れる自然、とりわけアラビア半島の荒涼たる風景に鮮烈な衝撃を受け、『風土』を構想した。一九三六(昭和一一)年、フランスへ向かう箱根丸に乗り合わせた横光利一と高浜虚子は、二・二六事件のニュースを船上で知ることになる。「大東亜戦争」により欧州航路は、日本人のヨーロッパからの引き揚げルートとなり、日本郵船の就航船のほとんどは戦禍により海の藻屑と消えた。欧州航路が経た、進出、膨張、壊滅への変遷は、そのまま近代日本が歩んだ道程ともいえる。かつて海を旅する者は時には四ヶ月にも及ぶ時間をかけて「様々な文化圏との差異や落差」を体験しながら旅の意味を反芻することができた。なんという贅沢な旅だったのだろう。