「気持ち悪い」への真摯な抵抗

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消滅世界

『消滅世界』

著者
村田 沙耶香 [著]
出版社
河出書房新社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784309024325
発売日
2015/12/16
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

「気持ち悪い」への真摯な抵抗

[レビュアー] 伊藤朱里

 読んでいるあいだ、ずっと「気持ち悪い」という感覚について考えていた。

 誤解しないでほしいのだが、それはセックスによる妊娠が退化、人工授精が一般化し、一方でさらに進化した社会への移行が始まりつつある、そんな『消滅世界』の設定に眉をひそめる「何これ、気持ち悪い」ではない。むしろ、逆だ。この一見異様な世界の中で、登場人物たちは、あまりにピュアに「気持ち悪い」という生理的感覚と戦っている。その切実さに、己を投影せずにいられないのだ。

 主人公の坂口雨音は、恋愛結婚をした両親の性行為から生まれた女性。作中の日本では夫婦間の性交は近親相姦とみなされている。雨音は自分の出自、そしていつまでも古い慣習を妄信し、娘にも同様の生き方を迫る母を「気持ち悪い」と思っており、年頃になると「母の魂の指紋がべたべたついているような部屋」で食べる手料理さえ嫌悪するようになる。雨音の二人目の夫の朔は、雨音に性行為を強要しようとした一人目の夫の話を聞いて嘔吐するほどの拒否反応を示し、その様子を見た彼女は「この人なら大丈夫だ」と確信、結婚して家族になることを決意する。

 ディストピア小説に分類されるのだろう。実験都市・千葉で始まっているのは「家族」に代わる「楽園」システム、すべての大人はそこで生まれた「子供ちゃん」を「おかあさん」として均等にかわいがり、育てる。一見平等でグロテスクなほど「愛」に支配された世界観は、まさにディストピアのそれだ。だがそこに、真実の隠蔽、人権の抑制、洗脳や粛清といった、その手の話にありがちな「隠された真実」は存在しない。あるのかもしれないが、作中においては重要ではない。登場人物たちは誰に強要されるでもなく、望んで自分たちなりの価値観に身を投じている。

 たとえば、雨音が高校時代に出会う親友の樹里。彼女は雨音が、母とは違うやり方で二次元の「キャラ」やヒトと恋愛を繰り返す様子を一歩引いて見ている。雨音が「セックス」と呼ぶ行為(ヒトとのそれと、現代で言うマスターベーション双方を含む)を樹里は軽蔑し、それをはっきりと口に出す。雨音はそれに抵抗し、口論を経て二人は歩み寄っていく。相容れないながらも互いを尊重し、彼女たちが友情を深めていくこのシーンは、まるでさわやかな青春小説のようで微笑ましい。

 この小説に出てくる登場人物たちはほとんど全員、「正しい」とされる価値観を、求めてはいるが妄信してはいない。正しさなんて一時的なものだと、みんな静かに悟っている。自分がセックスだと信じていた「キャラ」との行為が正しいものではなかったと知って落ち込む中学生の雨音に、同級生の水内くんがかける「きっと、坂口さんがそう思うならそうなんだよ」という言葉。出自を打ち明けた雨音に樹里が呟く「私たちは進化の瞬間なの。いつでも、途中なのよ」という台詞。みんなが優しく、そして孤独に自分なりの正しさ、「気持ち悪」くない場所を探して戦っている。

 その中で異彩を放つのが、雨音の母親だ。彼女は「恋愛した相手とセックスして子供を産む」という、読者側からしたら「正しい」価値観を有している。にもかかわらず、既に失われた時代の文化を摂取し続け、娘に同じ「正しさ」を強要して「呪いをかけた」と言う、その姿は明らかに歪んでいる。雨音は彼女に反発して朔と結婚し、セックスを家に持ち込まない夫婦として仲良く暮らしていたが、あるときふと、夫を生理的に受け付けなくなる瞬間が訪れる。「気持ち悪い」――そのひびが大きくなるにつれ、雨音は「気持ち悪さ」と対極にある「清潔」さを過剰なまでに重視し、次の「正しさ」を求め続ける。

 それを笑ったり、不気味がったりすることはできない。「気持ち悪い」。その感覚は私にだって、痛いほど覚えがあるものだ。特に思春期の、セックスの実態を悟っていく過程で感じた寒気。自分くらいの年齢の少女、いや、ほかならぬ自分自身が、父親ほどの年頃の男性の性的対象になりうるのだと悟ったときに立った鳥肌。自分という人間の形や心の醜さから、一生逃れられないことへの絶望。そう、あの頃、「気持ち悪い」は絶望だった。

 作中で雨音は、母や夫の食事するさまを見て嫌悪感を覚える。なんてことのない人の顔のつくりが、ふとした瞬間異様に見える。それは決して常軌を逸した感覚ではない。むしろ、苦しいほどよく分かる。そして、脳に直接訴えかけるような「気持ち悪い」への共感は、一見異常な作品世界に距離を置いて触れようと思っていた私の浅ましさをあっさりと越え、なめらかに内側へと引き入れる。

 そこに書かれた価値観、そして「楽園」システムの実態は、現代から見れば違和感だらけである反面、「ありえるかもしれない」未来でもある。だが、この小説は、すぐそこにある可能性を提示し、現代に警鐘を鳴らすために書かれたものではないと思う。著者の村田さんはそんなテーマ性より、真摯に登場人物たちの声に耳を傾けることを優先しているのではないか。彼らが折々に差し挟む「常識」への疑問は、社会の欺瞞を暴くとか世間への問題提起とかいった小説のためのギミックではなく、あくまで彼らの体感、身体の底からくる悲鳴のように感じられるのだ。

 ささやかな社会への違和感は、私たちの生きるこの現実でだってあることだ。何もかもが一過性で途中、そんな場所でどう生きればいいのか。「気持ち悪くない」場所はどこにあるのか。雨音はそれを必死に追求する。そして、その答えは本作のラストシーンに用意されている。彼女は異常な価値観に屈したのでも、勝利したのでもない。彼女だけの戦いは、安易な綺麗事を拒んでどこまでも続く。その迫力に、きっと誰もが戦慄するはずだ。

 ところで、この作品にはよく食事のシーンが出てくる。雨音と朔はお互いの恋愛について語りながらラタトゥイユやカスレを食べ、雨音と恋をした水人の妻は、夫の恋人の出現にはしゃぎながらパッタイやカノムモーケンを振る舞う。呪文じみた各国料理の名前を目にするたびに、作中の日本が、何の後ろ暗いところもなく世界に「開かれて」いることに気づく。そのことになんとなく違和感を覚える私を、雨音が、そして村田さんが、ページの向こうから首を傾げてじっと見つめている気がする。

 その眼差しは、軽蔑や反抗のそれではない。あくまで無邪気に、純粋に。「ねえ、どうしてそう思うの?」と。

新潮社 新潮
2016年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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