神々のたわむれ

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異郷の友人

『異郷の友人』

著者
上田 岳弘 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103367338
発売日
2016/01/29
価格
1,540円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

神々のたわむれ

[レビュアー] 中条省平(学習院大学フランス語圏文化学科教授)

 人間は主体性をもった個体であり、唯一無二の存在であるということが、近代的な人間概念の基本であるとするならば、上田岳弘はその前提に疑念をつきつける。

 本作は、山上甲哉という固有名をもった人間を主人公として、基本的に「僕」という一人称の語りで展開するが、ここには、人称という近代文学の制度を不安定にゆるがすトリックが仕掛けられている。

 そもそも、この小説は「僕」ではなく、「吾輩」という一人称で始まる。

「吾輩は人間である。人間に関することで、吾輩に無縁であるものは何もないと考えている。名前はまだない。といった状況が三日続いた後に、甲哉という名前がつけられて[…]」

 漱石の『猫』と、古代ローマの劇作家テレンティウスの『自虐者』のパロディである。それ以上に、この一見無責任な語りからにじみだすユーモア感覚が、人称という制度にたいする本作の批評的な距離を示している。

 主人公は「僕」として語るとき、山上甲哉という三十歳ちょっとの現代の日本人なのだが、この山上甲哉には、小説冒頭で語りはじめた「吾輩」という一種のメタ人格が付随している。「吾輩」は、現在は山上甲哉だが、長い長い前世を生きてきた過去がある。その前世で、「吾輩」は、いま名前の出たローマのテレンティウスであり、ガウタマ・シッダールタの愛弟子であり、精神分析学者のユングであり、世界最終戦争論を唱えた石原莞爾であった。そして、「吾輩」はその記憶をすべて保持している。

 それだけではない。「僕」は、Jというアメリカに暮らすオーストラリア人ハッカー、さらには、淡路島で新興宗教の教祖になったSという日本人の記憶をもち、彼ら二人の意識を覗くことができる。さらに、Sは自分の教義の信者となった人間の意識を見ることができるので、すでに三万人をこえる信者の意識を知ることができる。したがって、Sの記憶と意識をとおして、「僕」もまた三万人の信者の心のなかと過去の出来事が分かる。

 つまり、時間的にも、空間的にも、「僕」は人間個人の限界を超えた存在であり、神に近い存在なのだ。

「延々生き続け、意識を保有し、その場その場の民族人種情勢にあわせて人間をやり続けることは、なかなかに辛い」

 そう、神様はつらい。

 じっさい、ハッキングを駆使して世界中から莫大な金を稼ぎだす秘密組織の幹部である南アフリカ人のEは、部下であるハッカーJのメールを盗み読むことによって、「僕」の存在に気づき、「僕」と接触をおこない、「僕」のことを「神様」と呼ぶ。

 Eの野望は、神様である「僕」の能力を用いて、「世界を正しいあり方に戻す」ことなのである。だが、Eは、「僕」の神様としての能力に留保もつけていて、その意識と記憶がいささか齟齬や矛盾をきたすことをあげつらい、「僕のことをまるで機械製品かなにかのようにみなし、『仕様が曖昧だ』」と責めたてる。

 ここに披瀝されているのは、神様とは機械製品のようなものだという思想である。精緻な人工知能の開発者たち、人間そっくりの、いや、人間を超える能力をもったロボットを作りあげる科学者たちは、自分がまるで世界を創造する神になったかのように感じ、同時に、メタレベルにいる神が自分という精巧な機械製品を作りあげているのではないかとの不安に襲われる。

 そうした観念による呪縛のドラマは、しばしばSF小説や映画で見られる設定である。その意味で、本作『異郷の友人』は、『ソラリス』や『2001年宇宙の旅』や『ブレードランナー』や『マトリックス』、そして最近日本で初公開されたばかりのR・W・ファスビンダー監督『あやつり糸の世界』と共通する問題意識に貫かれている。

『異郷の友人』には、そのことが太字ゴチックでEの言葉としてこう記されている。

今時、神からの啓示はEメールでやって来るんだ。

 だから、気を抜いてはいけないよ

 このユーモア感覚の冴えが読みどころなのである。本作は、作者お得意のハードSFではあるが、スラップスティックな喜劇という側面ももっている。そこに、上田岳弘の小説家としての端倪すべからざる力量が表れている。

 Eは「僕」との接触により、Sの教義のなかに、世界を正しいあり方に戻すヒントを見出す。Sの教義の中心にあるのは、「大再現」である。かつてイザナキとイザナミが日本の島々を生んだとき、海を矛でかき回すことによって、全身を砕かれてしまったもう一人の神がいた。その名をスツナキミ。そうして粉々になったスツナキミは万物に宿っている。そのスツナキミが一つの体をとり戻してよみがえる未来の出来事が、「大再現」なのだ。そのとき、スツナキミの真の顔は「」として現われ、世界は混沌とした神々の時代に戻る。

 Eは「大再現」を待望することにより、一種の革命家となる。革命とは、この世界のありとあらゆるフィクションをぶち壊し、なんのよりどころもない状態に戻すことだ。そのとき、残った人間は神に接近するはずだ。Eの革命のヴィジョンにいちばん近いところにいる哲学者は、本作に言及はないが、ニーチェだろう。

 神の孤独に思いを致すEの想念は、教祖Sの思念と共振を始める。

「確かに悲惨だ。身を切るように残酷な孤独だ。[…]しかしながら、幸か不幸か大再現は必ず起ります。[…]それは、誰もが同じ孤独を味わうことを意味するのかもしれません」

 大再現とは、人間が身を切るような残酷な孤独と向かいあい、神になれるかどうかを問われる試練らしい。

 さて、大再現は来るのか、来ないのか? 鋭敏な読者は、『異郷の友人』の物語の始まる現在時が2011年の2月に設定されていることを見逃さないだろう。というより、作者はすでに種明かしさえおこなっているのだ。神様の名前のなかで。

 だから、本作の結末は未知の開示ではなく、とりあえずのものとなる。大再現はつねに無限に延期され、小再現が永劫回帰するほかない。作者は苦い笑いを浮かべながらそういっているような気がする。

 ともあれ、神という観念や人間の意識という哲学的問題と正面から取りくみ、複雑きわまる人称と語りを巧みに統御し、随所に冷たく秀逸なユーモアをちりばめ、リーダビリティ抜群のミステリー仕立てにしあげた手腕は、これまでの作品と同様、今回も大きな賞讃に値する。

新潮社 新潮
2016年4月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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