『姉・米原万里 思い出は食欲と共に』
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没後10年、妹が語る米原万里。「姉はいつでも個性的だった」【自著を語る】
[レビュアー] 井上ユリ(料理研究家)
姉・米原万里は、ロシア語通訳として活躍中に、自身や仲間のおかしなエピソードを交えた通訳論を書き、これがきっかけで文筆家となった。少女時代をすごしたチェコでの体験も、万里の作品の柱となった。
その姉が亡くなって、もう10年になる。ようやく万里との日々を楽しくふりかえることができそうな気がして、思い出を書いてみた。そして執筆の間、いろいろなことを考えた。
少女時代、チェコに行くことがなかったら、わたしたちの人生はその後どうだったのだろう。万里は何の仕事についたのだろうか。
当然、通訳になることはない。でも、物書きにはなった気がする。小さいときから作文もお話も上手だったし、作家になりたい、と早くから言っていた。何か仕事についたとしても、その仕事のことを、どこかしらに執筆しただろうし、そこから書く仕事に移っていったのではないかしら。あっ、でも会社勤めには絶望的に向かないから、仕事といっても自由業だろうな、などと想像する。
プラハ時代、知り合いの家で
どんなお話を書いただろう。
万里はこどものときから少し変わっていた。
お風呂ではいつもデタラメ歌をうたっていたし、縁日で買ってきたひよこにも風変りな名前をつけていた。
小さいころ悪さをすると、親も近所の大人も「おばけがでるぞ」とおどしながらこどもを叱った。万里はおばけでなく、「ふがふが爺さん」に怯えていた。親は、わたしを「おばけ」でおとなしくさせてから、万里には「ふがふが爺さんがでるぞ」の脅し文句を使った。そんな爺さんの登場するおはなしが当時あったのだろうか。今ごろになって気になり、姉と同年代の方に会うと尋ねてみるのだが、知っている人はまだ見つからない。やっぱり万里の創作のような気もする。もし、ふがふが爺さんをご存知の方がいたら是非知らせてほしい。
十代になれば、たいていの女の子は流行に敏感になる。わたしもモンキーズに夢中になり、レコードを買い、来日したときは、友人たちと一緒に武道館のコンサートに出かけた。当時流行った歌は、歌謡曲もグループサウンズの曲もいまだに覚えている。でも万里は、そんな流行りものに興味を示さない。テレビも、クラスで話題だから、人気の○○が出ているから、なんて理由ではなく、自分が面白いと思うか、だけを基準にして見ていた。
■本人のほうがもっと面白かった
いつでも万里は個性的だった。
プラハでの西洋文化との出会いを通して、姉は論理性、合理性、「笑い」を含む社交性を身につけた。作家生活は通訳論で始まったが、豊富な知識と笑いが評判となり、書くたびに文学賞を受賞してしまう。わたしは、それらの作品を面白く読みながらも、万里の個性はまだじゅうぶんに出ていない、もっと変な人なのに、と内心思っていた。姉は書く範囲を、徐々に広げていった。犬、猫のこと、食べ物のこと、少女時代のプラハのこと等々。2002年、『オリガ・モリソヴナの反語法』で、ついに小説を書くにいたった。ああ、ようやく小さいときからの夢の作家だ、万里の個性が出始めた、と嬉しかった。
イタリアで料理修業中のわたしを訪ねてきた万里が、ヴェローナのジュリエットの家で「おお、ロメオ」とやって喝采を浴びた
あと10年、せめて5年あれば、新しい創作が生まれた、と思う。万里自身の持って生まれた個性、ちょっと特殊な少女時代の体験、五十数年の人生を通して身につけた知見、すべてを大きくくるんで文章に表現する力が備わってきていた。
亡くなる2~3年前、「童話を書こうと思うの」と言ってきたことがある。
「タイトルはねえ、『ういじゃが行く』なの。ういじゃ、こどものときおかしかったじゃない。それを書くの」
ういじゃ、というのは姉のわたしの呼び方だ。でも、万里が言う、おかしな思い出の半分は、実際にあったことではなく、彼女の夢の中の登場人物としての妹、ういじゃがしでかしたことなのだ。きっと万里にしか思いつかない、変てこでばかばかしいおはなしが生まれていたはずだ。ああ読みたかった!
万里の思い出を書いている間、そんなことを夢見ていた。