わたしは犬である

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十三匹の犬

『十三匹の犬』

著者
加藤 幸子 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103452102
発売日
2016/03/28
価格
1,980円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

わたしは犬である

[レビュアー] 川村湊(文芸評論家)

 わたしは犬である。名前は、赤、マル、チビスケ、マリちゃん、テツ、チロ、ぶち、ベラ、ベレ、カピ、リリ、ポッキー、シバ。たった一匹の犬の身で、こんなに多くの名前を持っていたわけではない。わたしは十三匹の犬の魂の集合体なのである。オスでもあった、メスでもあった。母犬でもあり、父犬でも、仔犬でもあった。生まれたところも、住んでいたところも、それぞれ別々で、犬としての種類も様々だ。テリア、コリー、柴犬、スピッツ、雑種……。ただし、共通点はある。“ユーコさん”という女性のファミリーに、代々、飼われていた飼い犬だったということだ。

 それは“ユーコさん”がまだ赤ん坊だった時から始まり、白い頭の老婦人になった現在まで、わたしの来歴や履歴、“身の上話”は続くのである。最初、“ユーコさん”は、オトーサンとオカーサンといっしょに白い雪の降る札幌の町に住んでいた。生物学の研究者のオトーサンが北京の大学に勤めるために、幼児の“ユーコさん”の一家は、中国へ大きな船で渡った。中国がまだ日本の勢力範囲の占領地(植民地)であったような時期のことだ。だから、わたしも、最初はアイヌ犬であったのに、中国種の犬にもなったのだ。やがて、日本は戦争に敗れ、日本人は故国に引き揚げることになったが、オトーサンは、解放後の中国に留用され、新国家建設のために働いた。だから、“ユーコさん”は、中国人だけとなった北京で、ほとんど一人だけの日本人の子供として育った。それは北京海棠の花の咲く、“夢の壁”のような世界だった。わたしは、そんな日本人少女の友達でもあり、ボディーガードでもあり、そして家族でもあったのだ。

 日本に帰ってからのわたしと“ユーコさん”のファミリーの生活は、結構大変だった。戦後の混乱のなかで、わたしは浮浪児のような野良犬になったり、犬屋に大道で売られている哀れな仔犬だったりした。ニンゲンが生きるのさえ苦しい時に、イヌコロの身としては、汁掛け飯を食べ(ドッグフードなんてものは、とても口に合わない)、粗末な狭い犬小屋であっても、飼い主の匂いのする敷物さえあれば、最上の暮らしだったのである。

 わたしが迷子犬になって、しばらく“ユーコさん”のファミリーから離れているうちに、彼女にはいろいろと身辺上の変化があったらしい。オバーサンと娘さんとの女系家族となり、番犬としてのわたしといっしょという、新しい生活が始まった。その頃、“ユーコさん”は、板の台の前に坐り、その上で、ペンでカリカリと音を立てる仕事なるものを始めたらしい。わたしは、彼女の膝のなかにうずくまり、“主”の仕事の邪魔をせず、原稿の〆切りに追われる“ユーコさん”の心を慰める、貴重な協力者となっていた。今回、“ユーコさん”らしい人が出すという本も、わたしという存在がなければ決して書かれることはなかっただろう。わたしは、その意味で、単なる協力者ではなく、共著者でもあるのだ。

 わたしは、今、老婦人となった“ユーコさん”といっしょに、小春日和のような生活を楽しんでいる。もともと犬の身だから、視力はいいほうではないし、寄る年波で、嗅覚も衰え、脚のほうもちょっと弱ってきている。けれども、頭のほうはいっそうに冴え、昔のことを思い出すのに困難はない。昭和から平成までの二つの時代。日本と中国という二つの国。この両者を跨ぎ越してきた自分の犬としての犬生(?)に、不満なところはない。“ユーコさん”らしい人の、歴史と社会に対する作家としての貢献の評価に揺らぐところはないのと同じように。こんな幸せだった犬がほかにいただろうか。そして、こんな犬たちに囲まれて幸せだった“主”としてのニンゲンも。

新潮社 波
2016年4月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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