『吼えよ 江戸象』
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徳川吉宗が長崎から江戸へ運ばせた「白象」珍道中
[レビュアー] 縄田一男(文芸評論家)
享保十四年、八代将軍吉宗が長崎から江戸へ象を運ばせたことはよく知られており、これまでにも何人かの作家がこの史実を題材に作品を描いて来た。
五〇〇ページに迫らんとする本書は、気鋭、熊谷敬太郎が、まんまんたる自信をもってこの道中を描いた実に面白い――いや楽しい一巻である。
私もこう書いていて、何故、面白いではなく楽しいのか、とつらつら考えると、作中で象と心を交わすことのできる少女・千代をはじめ、何人かの子供たちを軸として、彼らが物語の中を実に活発に飛びまわるからなのだ。
だからといって決してあなどってはいけない。本書は大人が一気読みする大部の一巻なのである。
物語は、『三国志魏書』等にも通じながら少年の心を忘れない、長太郎が、目安箱に「母上と一緒に、象を見たいです」と将軍にお願いするところからはじまる。
改革続きで、庶民の生活に潤いがなくなったことを案じていた吉宗は、異国から誰も見たことのない白象を取り寄せ、これを江戸へ運び、少しでも明るい世の中にしようと念じる。
そして、長崎から江戸へ象を運ぶリーダー格となるのは、不思議と象と心を通わすことのできる千代と、長崎に蘭学を学びに行けると喜んでいたのが、馬医のそれで、すっかり腐っていた医師・田辺豊安。
それでもこのストーリーだけで五〇〇ページが持つのだろうかと思っていると、作者は、あと三つ脇筋を用意している。一つは、御存知、天一坊事件。それも、いわゆる“大岡政談”にはしないで、娯楽性を損ねず、史実に忠実に、南品川の山伏寺に天一坊らがいるところを、関東郡代・伊奈半左衛門が捕えたと、平仄(ひょうそく)を合わせている。
そして二つ目の脇筋は、前述の長太郎の父の弟子と母・岡田みねの敵討ちである。さらに三つ目が阿片の密輸……。と、こう書いていくと、物語が錯綜するのでは、と考える向きがいるかも知れぬが、そんなことはない。
作者は、象が天皇拝謁のために従四位をたまわるユーモラスな場面や、天一坊の残党が吉宗の鼻をあかそうと象の暗殺を企てるスリリングな場面をはさみ、余裕の筆致でストーリーをさばいていく。
気鋭の作品としては現時点で本年度随一。不思議とささくれ立った心をやさしくつつんでくれる向日性にあふれた作品だ。