『スケッチ・ブック 上』
- 著者
- Irving, Washington, 1783-1859 /斉藤, 昇, 1956-
- 出版社
- 岩波書店
- ISBN
- 9784003730010
- 価格
- 990円(税込)
書籍情報:openBD
ヨーロッパから認められた、初のアメリカ文学
[レビュアー] 渡部昇一(上智大学名誉教授)
アメリカは独立してからまだ二百五十年にもならない新しい国だ。したがってアメリカ文学史のはじまりも新しく、日本で言えば蕪村の頃の江戸文学時代と起源時期を同じくする。そのアメリカ文学史で、最初にヨーロッパ人から文学作品と認められたのはワシントン・アーヴィングの『スケッチ・ブック』であろう。
この本は旅行家でもあったアーヴィングが折に触れて書いたエッセイや短篇小説集である。全部で三十四編あるが、その中には日本の英語の教科書に入れられたものもある。
そのうち特に有名なのは、アメリカ浦島物語とも言うべき「リップ・ヴァン・ウィンクル」と、英語教科書を通じて日本の青年にも感銘を与えた「妻」であろう。
日本では浦島太郎が助けた亀に連れられて、竜宮城で楽しい生活をした後で「あけるな」と言われた玉手箱をあけて老人になるという、童話にふさわしい話であるが、リップの方は何か薄気味が悪い。口やかましい女房を避けて山にリス射ちに入ったリップは、酒樽運びを手伝わされ、不思議な人たちの集まりを見ながら、酒を飲んで寝込む。目を覚ましたら二十年経っていたという伝説にもとづく。二十年前のイギリス植民地の呑気な村は、独立戦争後にアメリカという国になり選挙とか政治とか、全く変質した社会になっているという話だ。
「妻」はかつての男性社会において、理想的な妻像を描いたものだ。「蔦(つた)は永い間その美しい葉を大樫(かし)の樹に巻きつけて、よく日をあててもらうと、この頑丈な巨木が落雷のため打ち裂かれる時には、その幹にやさしい蔓(つる)をからませて折れた枝を縛り支えるものである」とアーヴィングは書き出す。
ある豊かな男が、美人で明るく、社交界の華である女性と結婚する。琴瑟(きんしつ)相和す幸福な日々が続く。しかしこの男の事業が失敗し、貧窮の生活に落ちる日が来る。男はそれを妻に打ち明けることを悩む。友人にすすめられて思い切って打ち明けたら、その女性は欣然として貧乏生活を受け容れる。後に男の仕事はうまく行くようになるが、これは落魄した時の妻へのオマージュである。