『憲法改正とは何か』
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憲法はどう生かされているか
[レビュアー] 待鳥聡史(京都大学教授)
「憲法を暮らしの中に生かそう」。京都府知事を長く務めた蜷川虎三が、一九六〇年代末から京都府庁に掲げた標語である。府下の革新自治体で育った評者には懐かしい響きがあるが、その意味は分かるようで分からない。日本国憲法に体現された人権尊重などの近代的価値を、日々の社会生活でも追求しましょう、ということだったのだろうか。
社会生活を送る人々に憲法が大きな意味を持つという点では、本書が対象とするアメリカは、日本を大きく凌駕することは間違いない。著者の言葉を借りれば「アメリカ人は憲法を大切にするが、神聖視はしない。それに対し日本人は憲法を神聖視するものの、それほど大切にはしない」のである。
そのため、憲法と社会の間には複雑な相互作用が起こる。憲法は政治をはじめとする社会のあり方に影響を与えるが、社会のあり方もまた憲法に影響を与える。
本書は後者の側面、すなわちアメリカにおいて社会のあり方が憲法にどのような影響を与えてきたかを、憲法改正という視点から考える著作である。著者には既に、憲法がアメリカ社会にどのような影響を与えてきたかを鮮やかに描き出した『憲法で読むアメリカ史』という作品があるが、本書はそれを逆方向から語り尽くしたともいえよう。
一八世紀後半の建国以来、アメリカは常に変転の激しい社会であった。イギリスが大西洋岸に形成した一三の植民地の連合体に過ぎず、工業力や軍事力においてヨーロッパ列強に大きく劣っていた建国期のアメリカは、領土の著しい拡大、南北戦争、産業革命などを経て、二〇世紀初頭までに世界の強国となる。さらに二度の世界大戦を経て超大国となるが、その後も国内の産業構造は重工業中心から金融や情報通信産業中心に変わり、人種や性別の間の関係も大きく変わった。同性婚の容認のように、そうした変化は現在も続いているし、今後も続くだろう。
にもかかわらず、今日まで合衆国憲法の全面的な書き換えはなされていない。新憲法制定に当たるのは、独立戦争中に制定された連合規約が一〇年足らずで合衆国憲法に変わっただけである。
社会の変化と憲法の連続性。この二つを矛盾なく支えてきたのが、本書が注目する憲法改正であった。改正は、条文の修正や追加が頻繁になされる時期と、解釈の変更によってなされる時期に分けられ、二〇世紀以降は条文の修正や追加は稀になったと、著者は指摘する。その大きな一因は、改正の対象が満場一致的なものから政治的・社会的な論争を呼び起こしかねないものへと変化し、条文の修正や追加に必要な手続きが充足されなくなったことに求められる。判例による解釈変更が条文の修正や追加を先取りした場合もある。
ただし、両者の違いをそれほど意識しすぎる必要はない。再び著者の言葉を借りれば、修正であれ解釈変更であれ、つまるところ憲法改正とは「どのような国のかたちが国民にとって必要であり、望ましいか、あるべきかという、大きな課題への取り組み」の結果なのである。だからこそ「どんな改正も国民の支持がなければ効果を発揮しない」。
それゆえに、憲法改正にかかわる人々には、先を見通す叡智と社会状況の変化への配慮が常に求められる。合衆国憲法の生みの親であるマディソン、司法審査権を確立したマーシャル、国家的危機に直面したリンカーンやフランクリン・ローズヴェルト。これらの偉人たちに対してはもちろん、南北戦争前夜に後から見れば誤った判断をした最高裁首席判事のトーニーに至るまで、人物を描く本書の筆致には、憲法と社会の関係に正面から取り組んだ人々への深い敬意がある。
著者はアメリカの法律家として出発したのであり、南北戦争後の憲法修正が持つ手続き的問題を語るときなどの論理性には、その凄味の一端が窺える。だが同時に、本書の根底に流れているのは、アメリカにおける憲法という法律文書と社会に生きる人々との相互作用に対する、著者の純粋な知的好奇心と暖かい視線である。それは、アメリカ社会と合衆国憲法への愛、と言い換えることさえできるかもしれない。
日本国憲法の改正については、本書はいくつかの含意を導くにとどまる。むしろその方が良い。憲法と社会の間にどのような相互作用があるのか、憲法改正にかかわる人々はどのような知的格闘を続けているのか。本書は、各人がそうしたことを考えるための、大切な手がかりを与えてくれる。