鎖を焼き切る光

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焼野まで

『焼野まで』

著者
村田 喜代子 [著]
出版社
朝日新聞出版
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784022513588
発売日
2016/02/05
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

鎖を焼き切る光

[レビュアー] 倉本さおり(書評家、ライター)

 想像とは存外、不自由な行為だ。

 イメージしているものを自覚するにはとっかかりが必要で、つまり何かを心の中に思い描くとき、人はすでに言葉を食んでいる。食んだ言葉には細かい鎖がぶらさがっていて、元を辿れば累々たる他者の感覚とゆるやかに繋がっている。何の制約もない想像などそもそもあり得ない。

 だがこの小説は、想像する己自身に透徹した光を浴びせかけることで、すこしずつすこしずつその鎖を断ち切ってゆく。

〈ガンの治療は旅と似ている。(中略)寄る辺ない身の上だ〉

 語り手は、ちょうど震災と同じ時期に子宮体ガンを告知された六十代の〈わたし〉。九州の最南端にあるオンコロジー・センターで特殊な放射線治療を受けている。

 ガン細胞の増殖には休みがない。狂ってしまった遺伝子の結合を断ち切って死滅させるには、一定期間毎日センターに通って放射線を当て続けなければならない。出費を抑えるため、遠方からやって来る女性患者の大半は家族を残し、センターの近くの仮住まいからひとりぼっちで治療に向かうことを余儀なくされる。加えて、ガンの治療に「正解」はない。切除するという子宮体ガン治療の「王道」から外れた選択を行った〈わたし〉は、周囲の理解を得られないまま、ひたすら孤独な旅程を漂っている。だからこそ、ガンの患者にとって医者とは〈川の向こう岸に立つ神〉のような存在として映る。

 実際、治療を受ける〈わたし〉が捉える情景は、宗教的な色合いに満ちている。たとえば〈わたし〉は、腫瘍医学を意味する「オンコロジー」という言葉を聞くたび、「おんころころ、そわか」という祈りの文言を思い起こす。〈「薬師如来様。早く早くこの病いを治して下さい」〉――子どもの頃、老人たちがすがるように唱えていた呪文が、いまは自らの境遇に跳ね返る。しかもセンターが位置する市内には、対岸にある火山から降りそそぐ灰の臭いが充満している。ザビエル教会から鳴り響く鐘の音色は〈わたし〉の耳に、世界が燃えていることを告げる警報として感受される。

〈今まで感受性といえば、心が受け止めるものだけと思い込んでいた。体にも感受性なるものがあったのだ〉

 治療では毎回、二百匹のネズミを殺すほどの量の放射線を子宮に浴びる。まるで宇宙基地のように明るく空虚な施設の中で得体のしれない時間を過ごし、不穏な倦怠感を背負いながら帰りつくのはウィークリーマンションの一室。そこで自分を待っていてくれるのはテレビだけ。明滅する画面が延々と吐きだすのは被災地の映像だ。放射線で命を繋ごうとする〈わたし〉の意識の片隅には、茫漠とした罪悪感が巣食っている。そんな心の動きと並行するように、亡くなったはずの祖父母が平然と夢に現れる。

 生への渇望と死の気配。救済を求める祈りと罪の意識。従来の世界から隔絶されたガラス玉の中に広がるのは、神々しくもおどろおどろしい曼荼羅のような光景だ。

 ところが、毎日夥しいネズミの死を積み重ねていく〈わたし〉の体は、次第に食事も満足に受け付けないほど消耗し、同じぶんだけ心もずたずたに破れていく。

〈火事です。火事です。世界は火事です。神は今日も不在です。各自で避難をしてください〉

 繰り返される鐘の音の変容は、〈わたし〉自身の変化とリンクしている。いつのまにか祈りは擦り減り、その心には絶望に彩られた疲労だけが募っていく。

 そんな〈わたし〉の生活を唯一慰めてくれるのが「仲間たち」の存在だ。たとえば、かつての同僚で一緒に定年退職した〈八っちゃん〉。肺ガンを患っている彼は、抗ガン剤治療を受けながら入院中で、思いついたように電話をかけてきてはざっくばらんに消息を寄越す。また、センターに通うガン患者の中にもすこしずつ顔見知りができ、彼女たちと一緒に銭湯に入ったりもする。〈「子宮ガンと乳ガンと卵巣ガンの町歩きか……」〉――電話口でそれを聞きながら笑う〈八っちゃん〉の両隣のベッドには、前立腺ガンと肝臓ガンが揃っている。その場面には不思議な明るさが立ちのぼる。おそらくは、互いの中にあるカラリとした信頼が為せる業なのだろう。

 ある日、「ここへ来た記念に」という名目で、仲間たちと一緒に火山の噴火口を見に行くことになる。そこで白昼夢のような噴煙をバックに皆で記念撮影をしながら、〈わたし〉ははっきりと自覚するのだ。

〈こんなことでもなければ、たちまちすれ違ってしまう、わたしたちだ。ここに並んでいることさえ偶然の出会いである。みんな、そのおかしさをわかっている〉

 ガンを宿した者たちは、互いに相容れぬガラス玉の中に閉じ込められているからこそ、生の本質を理解している。もはや〈わたし〉に言わせれば、病気は「孤独」ではない。ただ「個人主義」になるだけなのである。

〈人の手も、人の声も、人の親切も、愛も、自分にかかってくるすべてのものが、もうどうでもいい〉

 治療が佳境に入り、照射される線量が倍以上になると、疲労のピークに達した〈わたし〉はすべてのコミュニケーションを疎んじるようになる。だがそれは、心を縛っていた鎖を捨てることをも意味するのだ。そうやってしがらみから解き放たれた感覚は、かつてなら「不謹慎」と捉えていたような想像を〈わたし〉に許していく。

 たとえば、夢の中で祖父が紙型の阿弥陀の首をぺしゃんと折り、頭部を飾る後光の針を、パキン、パキン、と折り畳む(!)場面。あるいは、火山を「天然の原子炉」と捉え、極彩色のキノコ雲を冠した爆発を幻視する場面。その比類なきイメージの豊かさは、告知を受けたばかりの〈わたし〉の心には見受けられなかったものだ。

 ガンが骨盤と脳に転移し、〈わたし〉とは別の放射線治療に望みを託すことになった〈八っちゃん〉は、感受性を「人間の個性」だと形容する。

〈「頭を釜に押し込められても、中の脳味噌は雲みたいに自由でいるんだ。がんじがらめに縛られていてもさ、超大数の気球を一つずつ、おれは脳の中の空へ飛ばしていく」〉

 見えない光に幾度となく焼かれることで、軛から解き放たれた想像力。それはロケットのように一瞬で飛びたち、空間も時間も超越したあと、最後はやっぱり現実へと着地するのだ。――そのよどみない所作は、まさしく読書の悦びとぴったり重なる。

新潮社 新潮
2016年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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