隠密同心の潜入捜査が巧みな犯罪を暴く

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隠密同心

『隠密同心』

著者
小杉 健治 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784041038925
発売日
2016/05/25
価格
660円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

隠密同心の潜入捜査が巧みな犯罪を暴く

[レビュアー] 細谷正充(文芸評論家)

 隠密同心――と聞くと、すぐさま「心得の条。我が命、我がものと思わず……」と続けたくなる。テレビ時代劇『大江戸捜査網』で、主役の隠密同心たちが斬り込みに向かうときに流れるナレーションである。いや、ある年代以上の時代物ファンにとっては、条件反射で思い出すほど、心に刷り込まれたドラマなのだ。逆にいえば、それだけ〝隠密同心〟のイメージが固まっているということになる。

 もちろん、そんなことは作者の小杉健治も承知しているはずだ。それでも新シリーズ第一弾となる本書に『隠密同心』というタイトルを付けた。自分なりの〝隠密同心〟の世界を創ったという、自信と自負があればこそなのだろう。だから本を開く前から、期待が高まってならなかったのである。

 江戸の三河町四丁目にある久右衛門店に移り住んだ、飾り職人の市松。その正体は、南町奉行所の隠密廻り同心・佐原市松であった。しかも彼の存在は、奉行所の同輩たちにも隠されている。知っているのは奉行と、隠密廻り同心の松原源四郎だけだ。そんな市松の任務は、各大名家のお家騒動に関与している、忍者の末裔の風神一族の動きを探ることだった。箱根山中で殺された密偵が口中に隠した紙片に記されていた、「三河町四丁目久右衛門店」と「才蔵」という文字。そして三河町四丁目の近くに上屋敷のある芸州浅野家の家老が、重役の一部に不審な動きがあると老中に訴えたものの、事故死したこと。これらのことを突き合わせ、久右衛門店に風神一族が潜んでいると当たりをつけたのである。

 自身を含めて六所帯が暮らす久右衛門店。浪人の成瀬三之助や、小間物の行商をしている幸吉、大道易者の夢見堂など、住人は多彩だ。いったい誰が風神一族なのか。住人を探る市松は、幸吉が犯人と疑われている空巣騒動にかかわり、岡っ引きの丑蔵と手下の定助に睨まれる。さらには饅頭笠の侍に斬りつけられたところを、三之助に救われた。錯綜する状況の中、誰も信じることのできない市松は、それでも探索を進めていくのであった。

 潜入捜査のため変装することの多い隠密廻り同心だが、年齢だけはごまかせない。そんな悔いを抱く隠密廻り同心の父親に、幼い頃から薫陶を受けた市松は、若くして特別な隠密廻り同心となった。飾り職人としての修業もしており、そちらの道を究めれば、名人と呼ばれる腕になるといわれている。このユニークな設定が分かったとき、テレビドラマの〝隠密同心〟のことを忘れ、小杉健治の〝隠密同心〟の世界に没入した。現在、隠密廻り同心を主人公にした作品は珍しくないが、そこに独自のスパイスを加えることにより、一気に読者の興味を掴んでいるのだ。ベテラン作家の着想は、やはり尋常ではない。

 しかも久右衛門店での市松の暮らしは、サスペンスに満ちている。なぜなら住人の中に風神一族がいると確信している市松は、誰も信じることができないからだ。たとえば三之助に命を救われても、その裏に何かあるのではないかと、考えずにはいられない。途中で現れる味方についても、最初は疑っていたほどだ。常に疑心暗鬼になり、岡っ引きたちの眼を躱しながら、住人を調べていく。市松の不安は読者の不安であり、これにより強烈なサスペンスを味わえるようになっているのだ。

 さらに市松が探索を進めていくと、殺人事件に行き当たり、新たな謎が生まれていく。ネタバレになるので詳述できないのが残念だが、こういう方向にストーリーを引っ張っていくのかと感心した。終盤で明らかになるトリックは定番のものだが、実に効果的に使われている。時代小説としてだけではなく、ミステリーの魅力も抜群だ。

 繰り返しになるが、本書は新シリーズの第一弾である。それを意識したのだろう。作者はラストで、風神一族に対するさらなる謎を掻き立てている。これから市松と久右衛門店の住人たちに、どのようなドラマが待ち構えているのか。本を閉じた瞬間から、続刊を待ちわびてしまうのである。

◇角川文庫◇

KADOKAWA 本の旅人
2016年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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