素手で診察 生涯を捧げた治療

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素手で診察 生涯を捧げた治療

[レビュアー] 稲垣真澄(評論家)

 NHKのETV特集「らいは不治にあらず~ハンセン病 隔離に抗った医師の記録」(四月二十三日放映)で、初めて小笠原登の名前を知った人も多いのではないか。法律「癩予防ニ関スル件」に代わり「癩予防法」が公布されたのは昭和六年。ハンセン病患者の国立療養所への強制隔離が国を挙げて実践された時期に、京大医学部附属医院皮膚科特別研究室(皮膚科特研)では、主任の小笠原を中心に、通院・入院という患者本位のごく当たり前の治療が行われていた。「癩は治る」とする彼の信念と、宗教者を含む多くの人たちに支えられながら。

 本書は、昭和十五年から二十九年までの彼の大部な日記を読み解きながら、同時代のハンセン病観の中でひときわ目立つ彼の病気観と生涯を明らかにする。

「救癩の父」などと呼ばれ、後に文化勲章も受章する光田健輔らによって推進された「癩予防法」の基本は、「癩は不治」で「強力な伝染性」を有し、他者には新たな病源となるゆえ、社会防衛からも患者の隔離は不可欠とするもの。優生学の臭いも強い。病が不治なら隔離は終生の絶対隔離とならざるをえないし、現に断種・堕胎まで強いられる。

 小笠原は「癩予防法」が公布されたのと同じ年に「癩に関する三つの迷信」という論文を書いている。そこで否定されたのは「癩は不治の疾患」「遺伝病」「強烈な伝染病」とする三つの思い込み。たしかにハンセン病は伝染病だが、伝染力はきわめて微弱で、細菌への感受性のない体質の人なら、感染しても発症しない。発症しても治療で治ること他の感染症と全く同じである、と。

 その後の彼の人生は一貫して、この知見に基づく治療活動に捧げられた。診察はつねに白衣と素手であったという。皮膚科特研の医師の中には、伝染力の微弱さを証明しようと患者の結節を自分の腕に接種する者さえ現れた(実際発症しなかった)。ただ、隔離を骨子とする「癩予防法」と、治療を旨とする彼との関係は微妙である。日本癩学会総会(昭和十六年)で推進派からやり玉に挙げられたりもしたが、彼は「悪法も法なり」と「癩予防法」を全否定はしない。同法の範囲内で折り合いをつけながら治療を続ける道を選んだ。カルテの病名欄を未記入にしたり、特研に入院させることで患者の療養所隔離を避けたのだ。

 戦後「癩予防法」は「らい予防法」に変わるが、復員軍人らの「軍人癩」、朝鮮戦争で予想される難民の「韓国癩」など、恐怖を煽って隔離を進めるのは戦前と全く変わらない。「らい予防法」が廃止されたのはようやく平成八年になってからだ。なお小笠原は京大を助教授で定年退官後、国立豊橋病院、国立療養所奄美和光園などの医師を務め、故郷愛知県の自宅寺院でも患者の治療を続けた。

新潮社 新潮45
2016年7月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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