ゴッチくんとぼく

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ゴッチ語録 決定版

『ゴッチ語録 決定版』

著者
後藤 正文 [著]
出版社
筑摩書房
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784480433510
発売日
2016/05/10
価格
1,045円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

ゴッチくんとぼく

[レビュアー] 曽我部恵一

 ゴッチくんと知り合ったのはいつかどこかのフェスの会場だと思う。ぼくのバンド、サニーデイ・サービスのライブを学生時代に見たことなんかを熱っぽく喋ってくれた。が、そのときはぼくは本番後でお酒も入っていて、ちゃんと話を聞いて会話が成立していたかどうか、自信がない。もう何年も前のことだから、そのこと自体をゴッチくんは忘れているかもしれない。いや、忘れているだろう。だけど「あのときちゃんと話できなかったなあ……」という、次にそんな機会があったら逃したくないような感覚が、自分のなかには、ある。あのとき、夏の薄暮のなか、だだっ広い芝生の上でロックバンドの演奏を遠くに聴きながら、ぼくは恥ずかしかったのだ。自分の音楽が、だれかひとかどの人から褒められるのが。峯田くんと初めて会ったときも、そうだった記憶がある。まったく恥ずかしいことだ。引っ込み思案の子供じゃないか。自我が肥大した挙句のみっともない大人。いまはお酒もやめているし、いろんなことにまっすぐ向き合おうと思っているので、次はちゃんといっぱい話して友だちになろう。そう決意したところで、人生に「次」などなかなか来ないのである。いずれにせよ、ぼくがそういうふうに感じている相手は、そんな日のことなど忘れていることだろう。いや、忘れていてほしい。

 どうしてはじめにこんなことを書いたかというと、ここで彼のことをなんと呼ぼうか迷ったからです。「後藤くん」だと、ちょっと他人行儀過ぎるし、「ゴッチ」と呼ぶほど友だちになれていない。ああ彼とは友だちになれていないのだなあ、と気付いたのだった。いつぞやはぼくが湘南あたりのビーチで歌う時に、ちょうど彼はその辺にいたようで、リハーサルに缶ビールの差し入れをたくさん抱えて遊びに来てくれた。なんていい奴なんだろう。だけど双方バタバタしているときで、ちゃんとは話せなかったなあ。ぼくはもうそのときお酒はやめていたのだけど、缶ビールは持ち帰って冷蔵庫に入れておいた。だから、ここでこうしてゴッチくんのことを書く機会が与えられたことは、面と向かう代わりになるようで、ありがたい。

 ゴッチくんの本を読んで「そうそう」とか「だよね」と思う場面がいくつもあった。この本を読んで分かったが、彼は一九七六年生まれでぼくより五つ下。ぼくが高三のときに、中一だったことになる。ぼくは中学高校がエスカレーター式の学校だったため、高三のときにも中一の後輩がいて、音楽の話なんかもしていた。ちょうどそんな歳の離れかただけど、聴いてきた音楽は被るものが多い。彼同様、オアシスはぼくにとっても世界一のロックンロール・バンドだった時があるし、イースタンユースを下北沢のシェルターに見に行ったりもしてた。九〇年代の真ん中くらいのある夜の小さなライブハウスに、ぼくと彼は一緒にいたのだろうか。この本のイラストを描いている山本直樹先生のことも。学生の頃読んで以来、山本漫画はぼくの中でずっと聖域のような場所にある。透明な性へのまなざしが、ぼくの自我をいつも鎮めてくれる。そういえば山本先生とは一度お会いして対談させていただいて、サニーデイの項目のイラストに「ご無沙汰」とあるのは、そのことです。共通の嗜好も含め、ゴッチくんとはお茶でもしながら話したいことがいっぱいあることがわかった。そして伝わってきたのは、彼の一途な心。広い興味を持ちつつも、情緒に流されないしゃんとした良き姿勢。パンクのことも喋りたい、彼と会ったら。彼はパンクに憧れながらも、距離があると書いているが、ぼくはパンクに憧れてそのまま飛び込んでしまったクチだ。中二のぼくは四国の田舎で、田んぼの畦道をガーゼシャツを着て自転車を押していた。パンクバンドをたくさん教えてくれたのは、高二、高三の不良の先輩たちだった。そう、そんなことも。話すことはいっぱいある。

ちくま
2016年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

筑摩書房

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