次の世代に伝える「講談えほん」の着眼点

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次の世代に伝える「講談えほん」の着眼点

[レビュアー] 立川談四楼(落語家)

“講談えほん”、これは優れた着眼ではなかろうか。子どもに与えてもいいし、大人が“読み聞かせ”をするのに恰好だと思う。

 絵本としての落語はすでにある。講談というのがミソだ。若手の台頭があるとは言え、しぶとい落語に比べて講談に昔日の勢いはなく、しかしそれは紛れもなくいいものであるから、世間をどう振り向かせるかが勝負になる。そこへ本書だ。読者を親と子、教師と生徒、更に祖父母と孫まで想定していると思われるところに工夫を感じる。

『三方一両損(さんぽういちりょうぞん)』というポピュラーな噺から入るのもいい。左官(さかん)の金太郎が三両と印鑑の入った財布を拾う。書きつけに神田三河町畳職、吉五郎としてあり、届けに行く。ところが吉五郎、印鑑と書きつけはもらうが、一杯やってけと三両を突き返す。カチンときた金太郎、印鑑と書きつけがありゃ三両もおめえのもんだろう! と、受け取れ受け取らねえで喧嘩になる。双方の大家(おおや)が加わって騒動は大きくなり、ついに南町奉行所に持ち込まれる。さあ大岡越前の登場だ。越前守(えちぜんのかみ)、両者に三両放棄の意思を確かめ、褒美をやる。三両に自らの一両を加え、二両ずつだ。

「越前預り置かば三両、吉五郎受け取り置かば三両、金太郎もらい置かば三両だ。これを三方一両損という」

 筋を書きつつ不安と可能性がないまぜになる。子どもにも、それを読む若い親や教師にとっても初めての噺なのではないかということだ。可能性は祖父母か。こないだまで『大岡越前』というテレビ時代劇があったことを伝えるかもしれないのだ。

 白か黒かだけでなく粋な裁定があるということや、カネに頓着せず、喧嘩っ早くてそれでいて根は親切な江戸っ子を、当の子どもたちはどう解釈するだろうか。通じると思う。芯を外さない宝井琴調のコンパクトな語り口と、えほんのえほんたる絵を描くささめやゆきがそれを余すところなく伝えているのだから。

新潮社 週刊新潮
2016年7月14日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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