『記憶の渚にて』
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壮大かつダイナミック。先読み不可能な白石一文の新たな傑作!
[レビュアー] 池上冬樹(文芸評論家)
白石一文は抜群のストーリーテラーであるけれど、今回はいつにもまして読者を強力に引っ張っていく。五百頁もある長篇(九百枚)で、ある一族の数奇な出会いと別れと再会の物語が輻輳していて、壮大かつダイナミック、まったく先を読むことができない。実に精緻に作りあげられていて、唖然とする驚きが隠されていて、物語の面白さをとことん味わうことができる。
物語はまず、石鹸会社の社長の古賀純一が、自殺した兄壮一の遺骨をもって会社に帰ってくる場面から始まる。
東京の病院から兄が危篤であることを知らされて駆けつけると、昏睡状態だった。五歳上の五十四歳の兄は「手塚迅」の筆名で小説を書いていて、世界的なベストセラー作家だったが、ここ数年は著作がなく、兄弟の間でも十年間音信が途絶えていた。病院の記録によると、藤原里美という女性が、自殺を図った兄を見つけたようだが、彼女の名前も住所もでたらめで、壮一の連絡先を書いて姿を消していた。兄は翌日の昼過ぎに息を引き取った。
遺品を整理していると、自分の家族を語る虚構にみちた随筆や奇妙な遺書、それに見知らぬ人間との謎めいたメールの交信が見つかる。これらは死と何か繋がりがあるのだろうか。純一はやがて、元恋人の峰子がブロック長をつとめる新興宗教で、兄と〝里美〟が出会ったのではないかと推測して、教団の集まりへとおもむく。
という紹介はほんのさわりにすぎない。第一部の後半は怒濤の展開になるし、第二部は八年後にとび、義理の甥の白崎東也の視点になり、古賀兄弟と宗教団体にまつわる物語はいっそう広がり、奥行きが深くなる。第三部ではさらに視点人物が増えて、古賀兄弟のみならず、ある一族の物語が浮上して、様々な過去と人物がつながり、人生が多層的に述べられていく。
白石一文は、人智を超えたものを自然な形でとりあげてきた。人と人を結びつける霊的なもの、いや単純に神秘的な体験といっていいが、それを好んで題材に選んできたけれど、今回はそれを前面に押し出している。ある宗教団体の趨勢をメインにおいて、どのように一族の記憶が受け継がれていくのかを何ともスリリングに捉えているのだ。
味わいはほとんどミステリといっていいだろう。個人的にはロス・マクドナルドの私立探偵小説を思い出した。人間関係が錯綜していき、誰と誰がどんな血縁関係にあるのか見えづらくなるあたり、アメリカの家庭の悲劇を描いたロス・マクの小説(ハードボイルドミステリだが、チャンドラーがそうであるようにロス・マクも現代文学)と同じく家系図がほしくなるからだが、作者は繰り返し人間関係を整理してくれるので、一時的に混乱しても、全体が見えるようになっている。
だが、もちろん本書はミステリではない。テレビドラマ化された『私という運命について』や、近年では『快挙』『神秘』が代表的だが、白石一文はよく運命の不思議さを描く。人と人とが出会うことの不思議さ、そこから始まる関係と広がる縁を、まるで神様の気まぐれのような形で始めても、最後になれば必然の形をとり、生きることの大切さが浮かび上がる内容であるが、本書ではいちだんとそれを掘り下げる。特に中盤からは主題である「記憶」をめぐって思索が繰り返され、前世の記憶とは何か、生まれ変わりとは何か、そもそも「私」とは何かを問いただす。「世界は一冊の分厚い本である」という手塚迅の言葉を元にして、やがて「記憶というのは、私の内部に存在するのではなく、私の外部に大きな海のようなものとして広がっているのではないか」という考えに至る。
というと、いやそんなことはありえないと思うかもしれないが、読めば「記憶の海」を我が身に引き付けることになるだろう。そしてあらためて白石文学が繰り返すテーマ、人はなぜ生きるのか、なぜ人と人は関係を結び、繋がり合うものなのかという根源的なことを、より切実に考えることになるに違いない。白石一文の新たな傑作だ。