『ブラバン』の津原泰水の料理を描く筆致は3D! 味を伝える技巧は活字世界の『美味しんぼ』

レビュー

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物語が創造主に要請する、“グッとくる”声

 作品が創造主に対し、おのが物語を語る際に求める声。津原泰水は、もともと、その要請に忠実な作家だったのである。狂ったウサギのように跳びはねる時制の中、饒舌な文体によって語り手の妄想と現実の世界が溶解していく長篇『ペニス』。夜の静寂からすくいとってきた十五の綺想からなる短篇集『綺譚集』。九年間病室で眠り続ける少女の無意識/夢想が東京をパニックに陥れる、シュールなシーンの連続で幕をあける幻想SF『バレエ・メカニック』。フリークス疑似家族にまつわる美しい短篇「五色の舟」。吹奏楽部でコントラバスを与えられた高校生男子を語り手にしている自伝的小説『ブラバン』。ヒキコモリ梁山泊の活躍を描いて痛快な『ヒッキーヒッキーシェイク』。ためしに右に挙げた作品を全部読んでみれば、津原泰水がいかに自分のもとに訪れた物語にふさわしい声を奏でる名手かということが了解できるはずだ。

 最新作『エスカルゴ兄弟』もまた然り。香川県で讃岐うどん屋を営む家の次男に生まれた、料理上手な編集者・柳楽尚登という、実直で粘り強く、誠実で礼儀正しく、頼まれごとに弱くて心優しい二十七歳の青年主人公の成長を描くこの物語を語り起こす声は、これまでの作品では聴くことのできなかったトーンになっているのだ。

 就職浪人三年を経て、ようやくつかんだ編集の仕事だったのに、人員削減で解雇の憂き目に→自然界の螺旋を撮り集めている写真家・雨野秋彦が、父親が吉祥寺で開いていた「立ち飲みの店アマノ」を、本物のエスカルゴを供する店に新装開店するにあたって、料理をまかされる→安月給ゆえに店の上にある雨野家で住み込みに→松阪で本物のエスカルゴ「ヘリックス・ポマティア」の養殖に成功した成瀬のもと、クラシックな調理法を学ぶ→最初は、たしかに美味しいけれど〈日本の一般庶民が、慣れ親しんだことのないこの食材を下手物扱いせず、「誇り高き陸の貝」として純粋に楽しんでくれるさまは、絵に描いた餅のようにしか思われな〉かったのに、知れば知るほどその味に魅了され、数々の創作エスカルゴ料理をものしていく。

 そんな、尚登のエスカルゴ料理人としての成長を描く筆致で、まず舌を巻くのが、垂涎必至の描写の数々。「アマノ」の人気メニューであるモツ煮込みや、成瀬から教わるエスカルゴ・ブルギニョン、松阪の飲み屋で食す薄揚げを切って開いた中に薄切りのチーズを入れて焼いただけの「キツネ」etc.etc.シンプルなものから凝ったメニューまで、津原泰水の料理を描く筆致は3D。味を伝える技巧は活字世界の美味しんぼなのである。

 そうした料理人としての成長を描く主筋に、コシが命の讃岐うどん屋の次男である尚登と、柔らかい餅のような食感の伊勢うどん屋の娘・榊桜の恋、そこに細くて喉ごしツルツルの稲庭うどん屋の息子までもが参入してくる、うどん界版『ロミオとジュリエット』のごとき純愛小説の要素や、雨野家で形成されていく疑似家族による心温まるエピソードの数々、秋彦&尚登「エスカルゴ兄弟」の漫才のようなやりとりを織りこんでいく。そのことによって、今回の津原泰水の声は、既刊のどの作品よりも涙腺や笑いのツボをダイレクトに突いてくるという効果を生んでいるのだ。

〈どうやったら世の潮流とシンクロできるかなんてね、誰にも分からない。負け戦を覚悟しながらも共感してくれる人々の存在を信じて、自分にとってグッとくる物を真剣に追い求める、本でも料理でもね〉〈いざという時は必ず訪れる。その時には踊れ、真剣に。光が見えてくる〉

 かつての津原泰水なら決して発しなかったであろう、こんなストレートで“グッとくる”言葉が散見されるのも、この物語が、そして尚登をはじめとする魅力的で個性的な登場人物らが、そういう声を創造主に求めたからに相違ない。読み終えた今、望むのはただひとつ。一日でも早く続篇を読ませてくれること。読者だけじゃない。物語がそれを強く要請している。

KADOKAWA 本の旅人
2016年8月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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