なぜ空前の大ヒットになったのか?――『未生』は韓国社会の縮図 原作者ユン・テホ氏ロング・インタビュー[前編]

インタビュー

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未生 = Incomplete Life 1

『未生 = Incomplete Life 1』

著者
尹, 胎鎬, 1969-
出版社
講談社
ISBN
9784063774863
価格
1,210円(税込)

書籍情報:openBD

『未生』は韓国社会の縮図――なぜ空前の大ヒットになったのか? 原作者ユン・テホ氏ロング・インタビュー[前編]

韓流イベントのMCやラジオDJ・テレビVJとして活躍する古家正亨氏が、韓国・ソウルで『未生 ミセン』の著者 ユン・テホ氏に独占取材! 韓国のウェブコミック・WEBTOON(ウェブトゥーン)で大ヒットし、コミックスは累計200万部を突破。ドラマ版も社会現象を巻き起こした本作の魅力にはまり、ソウルにまで一人ロケ地ツアーに出かけてしまうほど大ファンだという古家氏。「独自の目線でどうしてもインタビューしたい」という思いが通じ、インタビューが実現しました。インタビュー前編では、『未生』誕生秘話を紹介します。

ユン・テホ
1969年、韓国・光州生まれ。1993年『緊急着陸』でデビュー後、さまざまな作品を発表。日本でも公開された映画『インサイダーズ/内部者たち』『黒く濁る村』はユン・テホのWEBTOON(ウェブコミック)が原作である。『未生 ミセン』は韓国にて圧倒的な反響を呼び数々の賞を受賞、その世界観を巧みに映像化したドラマ版は社会現象となった。

聞き手/古家正亨(ふるや・まさゆき)
ラジオDJ/テレビVJ/韓国大衆文化ジャーナリスト。帝塚山学院大学リベラルアーツ学部客員教授。北海道科学大学未来デザイン学部客員准教授。上智大学大学院文学研究科新聞学専攻博士前期課程修了。韓国および東アジアの文化を中心に、幅広いジャンルでの比較対象を研究。韓国観光名誉広報大使、韓国政府文化体育観光部長官褒章受章。

 ***

──ドラマ『未生』を初めて観た時の衝撃は忘れられない。主人公チャン・グレのみならず、登場人物すべてが主人公のようなその作風は、これまで放送されてきた韓国ドラマとは、似て非なるものだった。そして、総合商社という日本発祥の企業文化が、韓国社会の中でどのように変化を遂げ、定着していったのか。儒教を重んじる文化・習慣の中で、女性が“会社”という環境において、どのような状況におかれているのか……など、まさにこのドラマの舞台、総合商社「ONEINTERNATIONAL」は韓国社会の縮図であり、実にドラマティックな人間模様が描かれているのである。
しかしこのドラマには、そんな優秀なドラマの上を行く原作漫画が存在する。その原作者とは昨年公開され、R指定映画としては異例の大ヒットとなったイ・ビョンホン主演の『インサイダーズ/内部者たち』や『黒く濁る村』といった韓国社会の暗部にスポットを当てた作品を発表してきた、人気漫画家ユン・テホ氏。なぜこのような作品が誕生することになったのか。そして大ヒット作『未生』を通じて、読者にどんなメッセージを伝えたかったのかを聞いた。(古家正亨)

1-1

――初めての提案から約10年後、「まるで運命のように感じて」

古家:この度、直接先生にお会いすることができて、本当に光栄です。ドラマ、原作ともにすべて拝見させていただき、あの素晴らしいドラマは原作の持つ力があってこそ、ということを改めて実感させていただきました。ただ驚いたのが、この『未生』は、出版社側から「こんな作品を描いてほしい」という提案があって誕生した作品だと伺って驚きました。これまでも出版社側からの提案で描かれた作品ってあったのでしょうか。

ユン・テホ:いいえ、このような依頼は、ほぼ初めてでした。ただ、その提案というものは、当初「囲碁の高段者が語ってくれる、サラリーマンのための処世術」のようなもので、どのページをめくっても“象徴”する内容がある、それを漫画で語るというものでした。でも、私は正直やりたくなかったですね(笑)。というのも、一つの作品を完成するに当たって、準備期間を含めて約4~5年がかかることを考えた時に、自分にはあまり興味のない、共感できない処世術というもので時間を無駄にしたくなかったのです。なので、私なりに、どういう風にして出版社側の望みと自分のやりたいことの間で、良い妥協点を見つけられるか、努力しました。

ご存知の通り、約10年前、韓国ではIMF危機(※01)が起こり、大勢のサラリーマンがリストラされるようになり「一生の職場」という概念がなくなることで、彼らは事業を始めることを余儀なくされたわけです。当然、経験もノウハウもなかった人々は、失敗することも多かったので、このような状況を観て私は、果たしてお金を稼ぐこととは何なのだろうかと、起業関連の本を読んだり、取材をしたりと作品作りのために勉強をしたことがあったんです。ただ、勉強が追いつかず、途中で辞めてしまったのですが(笑)。

その作品を諦めた後は、賭け囲碁士の話を描いてみようと勉強を始めたのですが、それもまた自信があまりなかったので諦めることになりました。ところが、約10年後に出版社から偶然、囲碁とサラリーマンをテーマとした作品の依頼が来たわけです。まるで運命のように感じて依頼を受けることになりました。両方とも私が昔勉強して諦めたアイテムだったので……。

――サラリーマンのアイロニー

当初、出版社側では成功したサラリーマン、つまり、成就する人々の話を書いて欲しかったようです。でも私は、それにはどうしても違和感があって……。実際には、サラリーマンとして成就したと感じる人は少なかったですし。あれだけ勉強して努力して入った会社なのに、満足出来ないのは何故なのか。例えば、一生懸命働くためには、当然帰宅が夜遅くなったりして、自分や家族のための時間は少なくなるわけですよね。自分や家族が幸せになるために会社に入ったのに、むしろ会社のために自分や家族を犠牲にせざるを得ないというアイロニーについて描くしかないと思ったのです。つまり、どうして私達はこうして自分の人生を犠牲にして生きていかなければならないのかについて話したかったのです。

なので出版社には、ごく普通の大人なら社会生活の中で、誰もが感じるであろうペーソスがあるはずだし、そういう作品を描きたいと提案をしたのです。幸いなことに、出版社側でもその方向がより私らしいと認めてくれたので、こうして『未生』が始まることになったのです。

――なぜ囲碁がテーマなのか

古家:そうだったんですね。それにしても、囲碁をテーマとしたことが斬新でした。僕も昔、囲碁を打っていたことがあって、その時に感じたのが、囲碁というのは単なるゲームではなく、そこにはもっと深い精神世界がある、独特な文化があるものだと感じました。ユン・テホさんは囲碁についてどう解釈されていますか。

ユン・テホ:実際に私は囲碁はあまり出来ないです(笑)。実力と言っても、ごく初歩な水準なのですが、その代わり、プロ棋士達の伝記など、囲碁関連の本を読むことが大好きでした。

囲碁というのは、碁盤という限られたステージの上で、“確立した自分”の姿勢が必要なわけです。相手の打ち方を意識せず、自分はこう打つという哲学や態度。それが私にはとても興味深かったですし、特に勝負のあと、それを受け入れる棋士達の態度や、復碁に対する真剣さなどに、いつも感銘を受けてきました。

――プロ棋士はまるで修行者

普通の人なら、人生の中で成功や失敗があったとしても、そこまで復碁することもないでしょう。特に失敗を振り返ることはとても辛いことなので……。でも不思議と、囲碁というのは勝負が終わった後にも、勝者と敗者がもう一度向かい合って、そのゲームを振り返るわけなんです。

囲碁を他の言葉で表現すると“手談”、つまり「手で話す言葉」とも言いますが、それを通じて、自分が負けた理由が分かるようになったり、勝ったとしてもそれが相手の失敗で偶然得られたものではないのか、など、必ずもう一度振り返らなければならないというところが、とても神秘的に感じたのですね。

例えば、韓国では棋院に研究者として入るためには、5~6歳の頃から入らないといけないのですが、いつも「勝ちたい」ゲームだけをやりたい子供達にとって、復碁というのは、自分が負けたとしても、嫌な気持ちになりながらも、相手を目の前にして必ず自分が負けた理由を勉強しないといけない、残忍なことでもあるんですが、一方ですごいことだと思うんです。つまり、囲碁そのもの自体は単なるゲームに過ぎないかもしれないけれど、それに向かうプロの棋士達の態度というのは、まるで修行者のようなものだと思います。

古家:そういえば最近、ちょうどアルファ碁(※02)についてのニュースがありましたよね。韓国社会には、かなり大きなインパクトがあったようですが。

ユン・テホ: 私も、もちろん全部見ました。最初は単純に人間が負けないように、アルファ碁が勝ってはいけないと思って応援して見ていたのですが……。イ・セドル九段がたった1回だけ勝った時にはとても感動してしまいました。それは彼が勝ったということに対する感動ではなくて、実はそのゲームで勝つために、彼は今まで負けてきたゲームの過程を、他の同僚たちと何回も復碁しながら、自分がなぜ負けたのか、そしてアルファ碁はどうやって賢い囲碁を打ったのかを冷静に分析したんですね。プロ棋士なら恥ずかしくて打たないような手も、アルファ碁は差し支えなく打ったことを含めて……。そういった、その負けに向かうイ・セドル九段の方法論は、本当に素晴らしいものだったと思います。

結論から言うと、ゲームでは負けてしまいましたが、その問題を認識して、それを克服しようと努力する過程をやり続ける存在としての人間の姿が、人工知能よりも魅力があると感じたのです。

――「より良く生きていく」それは自分を知ることから始まる

1-2

古家:僕は『未生』を読んで、作品の中に出てくる登場人物すべてが、勝者であり敗者であると感じたんです。結局、社会を構成する我々一人一人もそうではないかと。ユンさんがこの作品を描くに当たって、読者の皆さんに一番伝えたかったメッセージは何だったのでしょうか。

ユン・テホ:この社会で自分は「勝った」とか「成功した」と言える人は、果たしてどのくらいいるのでしょう。お金が1兆円、10兆円あるからと言って、その人の人生が“ミセン(未生)”ではなく“ワンセン(完生)”と言えるでしょうか。私はそうでないと思います。全ての人は、ただ自分に与えられた人生を毎回経験しながら生きていくだけの存在であって、勝つとか負けるとかのゲームをやっているわけではないのです。

でも、ほとんどの人は勝負を、評価を常に気にして生きているわけですよね。良い車を持っていて、高価な家を持っていて、良い学校を出ていることで、私たちの人生を“飾ろう”とするわけですが、私たちは流れるように過ぎていく人生の中で、ただ生きていく存在だと思うのです。ですから、勝つという意味よりも「より良く生きていく」という意味で、人生を生きていかなければならないと思うわけなんですが、では「より良く生きていく」ということは、果たしてどんなことなのでしょうか。そう考えると、それはやはり「自分らしく生きること」だと思うんですね。では「自分らしく生きること」とは何なのかと考えると「自分はどういう人」なのかを知ることから始まると思います。

残念なことに、韓国社会では学校教育において、自分自身がどのような人であるかを教えてくれることはありません。ただ、進学のため、就職のために必要なことを優先に教えてくれる場所なんです。ですから私たちはまず、自分自身がどのような人なのか、いったい自分は誰なのかがよく分からないのです。社会においても、ただ自分よりも上にある地位の人たちの要求に沿って生きていくしかないのです。

個人の人生においてもそうです。特に最近、ネット社会の進化によって、誰もが他人の人生をより簡単にのぞけるようになり、自分の人生を他人の人生に照らし合わせて評価するようになりましたね。韓国には「私たちは他人の夢を追いかける存在」という言葉があるんですが、その言葉のように、自分の人生ではなくて、「他人から羨ましがられるような人生」を生きていく存在になってしまったのです。自分自身を見失ってしまっているのです。

正直なところ、高卒で、大学生活やサラリーマンの経験をしたことのない私が読者の皆さんに何かのメッセージを伝えられるとは思えません。ただ、漫画に出てくるいろんなキャラクターたちを自分に重ねながら、自分自身のことを振り返ってもらえたらと思っています。そうすることで、自分自身を発見することが出来る、そんなきっかけになって欲しい。そういう思いからこの作品を描きました。

――商社が一番「会社」という属性を求めているから

古家:本当に納得させられます。ところでドラマ『未生』は今、日本でも注目を集めているのですが、その理由の一つが日本にも総合商社文化が存在するからかと思います。ご存知の通り、総合商社という文化は、日本が発祥で、世界においてそのような企業体が存在するのは、日本と韓国だけなんですよね。『未生』を描かれた際に、その背景としてなぜ“総合商社”を選択したのでしょうか。

ユン・テホ: 会社という集団は簡単に言えば、モノを売ったり買ったりする“商売”をするところですが、実は今、韓国では総合商社という形態の会社はなくなりつつあります。というのも、各会社の中に、独自の商社の役割を果たす部署があるからです。資源の少ない韓国ですから、そんな資源を購入するための存在として、今も商社の存在意義はありますが、私にとっての商社の存在は、今もまだモノを売ったり買ったりするという商売に集中する場所なんです。ですから、商社が一番「会社」という属性を求めているところでもあると思うんですね。商社を舞台にすることで、過去の韓国の商社文化の全盛時代を享受することが出来るのではないかという思いと、何といっても海外とのビジネスが今も一番活発に行われている場所でもあるので、この漫画の舞台に選ぶことにしたんです。

――韓国社会で働く女性

古家:この作品の中で、一番僕が個人的に印象に残っているキャラクターが、アン・ヨンイなんです。韓国の女性社員たちがどのような会社生活を送っているのかはよく分からないのですが、アン・ヨンイというキャラクターを通して韓国社会を観た時、女性社員としての暮らしはとても大変なことであると感じました。そして、その描き方には、賛否両論があったのではないでしょうか。ユン・テホさんは彼女を描くために、どのような調査をされたのでしょうか。

1-3アン・ヨンイ(左)、チャン・グレ(右)

ユン・テホ:基本的に韓国社会は男性中心の文化だったんですよね。実際には、’90年代以降、女性たちも社会で活発に活動するようになっています。にも関わらず、男性中心の文化そのものはあまり変わっていないような気がします。つまり、女性を信頼して一人のパートナーとして認めるにはまだまだ温度差があるからなんです。例えば、冗談としてなのか、セクハラとしてなのかの認識が明確じゃないまま、冗談を軽い気持ちで言ったりする男性が多いのが現状です。ですから今の韓国社会では、この問題は時に大きな社会的イシューになっています。特に閉鎖的な“会社”という空間の中では、まだまだそういった文化が残っていると思います。

韓国の女性社員の間では「ガラスの天井」という言葉がよく使われます。いくら上に上がっていきたくても、目には見えないガラスのような壁があるという意味で、なかなかそれを乗り越えられないという意味があります。実際に取材をして感じたのは、男性たちは、それを当たり前だと思うような雰囲気がありましたし、女性たちは男性たちよりも、常に努力していないと高い評価を得ることが難しいと、自覚していると思いました。

一番大きな問題だと思ったのは、女性社員が結婚した時に、育児をする際、あまりにも大きい犠牲を強要されるということです。法律的にそれが保証されているにも関わらず、実際にそれを利用しようとしたら、見えないところで不利益を受けなければいけないところがあり、これから必ず、改善しなければならないと感じましたね。

――主人公 チャン・グレの存在

古家:確かに、目に見えない圧力というものが、韓国の会社文化の中にはありますよね。それは一部日本企業にも当てはまることでもありますが。それから、主人公であるチャン・グレについても触れておきたいのですが、漫画の中では“存在”しているものの、実際の韓国社会で、彼のような人間は存在出来るものでしょうか。差別的にいうのではなく、高卒で総合商社って、現実的に言って、正直ありえないですよね。

ユン・テホ:そうですね、現実では絶対ありえないですよね。彼が会社に入ったきっかけや手順を見ても、高卒という学歴では、インターン・シップでさえ、履歴書を送ること自体が不可能です。でも、囲碁だけやったことがある、全く会社員生活をしたことのない高卒のチャン・グレというキャラクターから見た世界を描くことで、人々の人生がより客観的に見えるのではないかという思いで彼のようなキャラクターを入れることになりました。

文書をコピーするなど当たり前なことのマニュアル化から、尊敬語の使い方や肩書によってお互いのことをどのように呼び合うのかといった問題など、特に韓国には軍隊文化が存在するので、日本以上に複雑な序列文化があるわけです。そういったことを会社員たちは当たり前のように思ってきたはずなんですが、チャン・グレの目線からすると、とても不思議なことも多いのです。

そして、韓国ではとても教育熱が高いのですが、一体その勉強というものがなぜ必要なのかを考えてみると、結局人を採用する時の評価の基準としてのものに過ぎないので、実際にその“勉強”が現実社会で使われることがないわけです。

多くの会社員を取材してみたら、皆、勉強ばかりするのではなくて、いろんな経験や旅行をしてもっと自分のための時間を過ごせたらよかったのにと言っていました。つまり、大企業に入るために努力したことに比べて、“効用”という点でその努力の価値は、あまりにも低かったことに気付いたということでした。ですから、その規格から外れている高卒のキャラクターを入れることによって、その“逆説”が表現出来るのではないかと思ったのです。

古家:なるほど。チャン・グレの視線が、今の韓国社会に、実際に求められている視線なのかもしれませんね。


IMF危機(※01)1997年12月3日に韓国の通貨ウォンが暴落し、国家破綻の危機に。国際通貨基金(IMF)からの資金支援の覚書を締結した事件で、韓国では多くの人々が職を失い、景気は失速した。この未曾有の経済危機を韓国では「IMF危機」と称することが多い。

アルファ碁(※02)Googleが2014年に約500億円で買収した人工知能(AI)開発ベンチャー「DeepMind」と開発を進めてきたコンピュータ囲碁プログラムが「AlphaGo(アルファ碁)」。世界で初めて人間のプロ囲碁棋士をハンディキャップなしで破ったAIであり、2016年3月には囲碁のトップ棋士イ・セドル九段との5番勝負に勝利して大きなインパクトを残した。

翻訳:古家旻奈

>> インタビュー【後編】では、原作『未生』のドラマ化への思いのほか、自身の作品に込められたメッセージや漫画家になったきっかけ、日本の漫画との関係などについて紹介します。

講談社
2016年8月14日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

講談社

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