『詩のトポス 人と場所をむすぶ漢詩の力』
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詩のトポス 人と場所をむすぶ漢詩の力 齋藤希史 著
[レビュアー] 坪内稔典(俳人)
◆土地に積もる人々の思い
たとえば、「洞庭」の章。神話的な空間であった洞庭の野が、地勢の変動によって湖面が拡大、やがて詩のさかえた唐の時代に満々と水をたたえて広がった。そして、現在、洞庭湖は干拓地に囲まれたただの湖になっている。著者は古地図を示しながら、以上のように洞庭湖の変遷を語り、その変遷に伴った数々の詩を挙げる。
八月 湖水平らかに、
虚を含みて太清に混ず。
気は蒸す 雲夢沢(うんぼうたく)、
波は動かす 岳陽城。
孟浩然(もうこうねん)の五言律詩「岳陽楼」の一部を引いた。著者はこの詩が「洞庭湖の眺めを特権的なものとした」と言う。 右の「洞庭」の章を含めて、この本は洛陽、成都、金陵、西湖(せいこ)、廬山、涼州(りょうしゅう)、嶺南(れいなん)、江戸、長安の十章からなる。著者は「ことばは無からは生まれない。誰かが自らのためにつむいだトポスに最初は仮住まいしながら、いつしか何かを加え、また全体を編み直し、自らのことばの場所、トポスとする」と書いているが、これらの地はその代表的なトポスだ。トポスとは「詩が生まれる場所、詩が共有することば」(あとがき)である。
江戸がそのトポスであるのは、江戸時代から明治にかけて漢詩がまさに時代の詩歌であったから。この本では隅田川をめぐる詩と詩人が紹介されているが、その一人、寺門静軒は向島・長命寺の桜餅屋を、「桜餅招〓(おうへいしょうれん) 飄(ひるがえり) て雲に上る」と詠んだ。桜餅招〓は桜餅屋の店頭ののぼり旗だ。
そういえば、十代から漢詩に熱中していた正岡子規は、学生時代の夏、長命寺の桜餅屋に下宿、その家を月香楼(げっこうろう)と名づけて漢詩や俳句を作った。彼は漢詩の時代の末期に登場、漢詩を踏み台にして俳句、短歌という近代日本の定型詩に弾みをつけたのだった。
サントリー学芸賞を得た『漢文脈の近代』以来、評者は著者のファンである。彼は古典詩の漢詩を今の詩として、とても身近に感じさせてくれる。
(平凡社・2808円)
<さいとう・まれし> 1963年生まれ。東大教授・中国文学者。著書『漢詩の扉』。
◆もう1冊
一海知義著『漢語の知識(改版)』(岩波ジュニア新書)。熟語や成語など、現代日本語のなかに生きる漢語のルーツを紹介する。
※〓は、ウ冠の下に八に巾