“書物大虐殺”という蛮行に対する思想戦

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“書物大虐殺”という蛮行に対する思想戦

[レビュアー] 平山周吉(雑文家)

 占領軍兵士の「オキュパイド・ジャパン」への置き土産に、「兵隊文庫」というペーパーバックのシリーズがあった。古本屋や露店の店先で安く売られた、粗末な英語本は、草の根の日米交流に一役買ったのだが、それはあくまでも副次的な役割でしかない。

 本書は、第二次大戦下にアメリカで大量生産された粗悪な書物が熱烈に読まれた歴史を描いた「読書の社会史」である。著者はある出版社の書庫で、無料で配られた兵隊文庫への感謝を記した兵士たちの手紙を大量に発見する。心の準備もなく苛烈な戦地に赴いた一般市民の兵士は不安と疲労の中にあって、兵隊文庫を読むことでどうにか救われた。「隊員の尻ポケットを見ると、十中八九、兵隊文庫が突き出ているよ」。食事の後で、ベッドの中で、時には見張りに立っている時にも(!)。

 兵士たちに人気があったのは、故郷の子供時代を思い出させてくれる小説、ストレス解消に役立つ西部小説などだった。官能的なシーンが多いと一部地域で発禁になった書物でもゴーサインが出た。「アメリカ軍は自由を守るために戦っているのだから、どのような作品でも、兵士が自由に読めるようにすべきだ」という主張が通ったからだ。

 参戦国についての知識を与えてくれる本も求められた。兵隊文庫は一九四三年九月から始まった。その最初のラインアップには、駐日大使だったジョセフ・グルーの『東京報告』が入っている。これには驚いた。最新の日本論が、ディケンズ、コンラッド、サロイヤン、サン=テグジュペリ、メルヴィルの名作やフォレスターの海洋小説と並んでいるのだ。メルヴィルの作品が『白鯨』ではなく、『タイピー――南海の愛すべき食人族たち』であるのも含蓄が深いではないか。

 兵隊文庫は一九四七年九月まで出され、累計冊数は一億二千三百万冊に達した。国家総力戦は書物にまで及んでいたわけだ。日本の陸海軍も恤兵部が雑誌を配給したり、岩波文庫を買い上げたりしたが、物量でも、内容の許容範囲でも遥かに及ばない。サイパン島に上陸した海兵隊は、一週間で図書館を建設した。ある軍医は、「軍の能力の向上に最も役立ったのはペニシリンであり、その次に役立ったのが兵隊文庫である」と診断した。

 兵隊文庫に入った作品の中には、ナチスが禁書にした作家の本も多く含まれていた。「ナチスに迫害された多くの作家の作品が、兵隊文庫になってヨーロッパに戻ってきたのである」。ヘミングウェイ、トーマス・マン、ツヴァイク、レマルク、H・G・ウェルズなどである。ナチス・ドイツ占領下のヨーロッパでは、出版活動は事実上停止していた。戦争情報局が協力して、海外版「兵隊文庫」プロジェクトが始動する。その数は三百六十万冊に過ぎないが、このプロジェクトは本書の主題と密接にかかわっている。

 なぜなら本書は、一九三三年のベルリンの光景から始まっているからだ。“非ドイツ的”とされた書籍の焚書である。ゲッベルス宣伝大臣の演説が終わると、炎の中に本が投げ込まれていく。ナチスが葬り去った本は一億二千万冊といわれる。それに対して、アメリカが戦地に送った本は、兵隊文庫とその前身の戦勝図書運動を合わせて一億四千万冊。“書物大虐殺”という蛮行に対する思想戦にアメリカが勝利したという構図である。ルーズヴェルト大統領は、「書籍は民主主義の象徴」であり、「本は永久に生き続ける」「いかなる人間もいかなる力も、記憶を消すことはできない」「思想を強制収容所に閉じ込めることはできない」と声明した。

 戦勝図書運動の中心人物ジョン・コナーは「戦時中の検閲に強硬に反対した人物で、公民権の擁護者」であった。コナーは日系人収容所にも書籍を提供し、陸軍と交渉して、アフリカ系アメリカ人部隊に送る本の数を増やした。アメリカの理想主義そのものを体現した人物だったのである。

 ヨーロッパ戦線で勝利すると、復員に備えた実用書が兵隊文庫に加わる。様々な業界の案内書、職業選びの指南書、お金を儲ける本。GI法によって大学生となった元兵士は優秀で、「平均点を上げる忌々しい奴ら」と一般学生から煙たがられた。戦場での読書は、それまで本を読まなかった兵士を新たな読書人口に加えた。

 何から何までいいこと尽くめとして書かれているアメリカの「思想戦」勝利の書である。本書を読んでいて、鼻白む点があるとしたら、その一点である。産経新聞の書評で、有馬哲夫早大教授がそれを指摘している。「一方、著者は、ナチスが焚書を行い、ナチズムに沿った本と入れ替えたことを激しく非難しているが、アメリカは占領期に日本に対して同じことをしたことを指摘しておきたい」。

 アメリカ社会の自由の強度をあらためて認識すると同時に、単純化された「正義」がアメリカという国を衝き動かす姿が垣間見えてもくる。

 本書の巻末には、ナチスによる「禁書の著者」リストと、千三百タイトルにも及ぶ「兵隊文庫リスト」が載っている。細かな活字を追っていると興味は尽きない。その人名とタイトルを見ていると、なぜこの本が選ばれたかと、勝手な妄想が去来して楽しめるのだ。ありがたいことに、「兵隊文庫リスト」には、邦訳タイトルの情報が編集部によって加えられている。邦訳情報の付加は面倒くさい作業だったに違いない。それだけに、編集部の書籍への愛情が、そこはかとなく感じられてくる。

新潮社 新潮45
2016年8月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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