わが子が犯罪に巻き込まれ「被害者」または「加害者」になったら――親は悲しいまでに「望み」を託そうとする

レビュー

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望み

『望み』

著者
雫井, 脩介, 1968-
出版社
KADOKAWA
ISBN
9784041039885
価格
1,760円(税込)

書籍情報:openBD

親は悲しいまでに「望み」を託そうとする

[レビュアー] 永江朗(書評家)

 もしも子供が被害者または加害者になったら、泣きながら祈るほかできることはないのか……たしかMr.Childrenが『タガタメ』という曲でそんなことを歌っていた。少年犯罪が報道されるたびに、ぼくの頭の中で桜井和寿の歌声が聞こえる。

 もうひとつ、ぼくが思い浮かべるのはフランスの作家、メリメの短編『マテオ・ファルコーネ』。逃亡者を警察に売った十歳の息子を、裁きとして射殺する父親の物語だ。

 わが子が犯罪に巻き込まれる。親にとってもっとも心配なことのひとつだろう。被害者として傷つくのもつらいが、加害者になるのもやはりつらい。それだけではない。プライバシーがあっという間にネットで晒されてしまう現代では、当人だけでなく親やほかの家族も情報によるリンチを受ける。凄惨な事件が報道されるたびに、被害者と加害者それぞれの家族のことを思って心が痛む。彼らはわが子が事件の当事者になっただけでもつらいのに、さらに世間から制裁を受けることになる。

 雫井脩介の『望み』はそんな親たちの心情を描いた長編小説であり、一種の心理的な実験でもある。

 読んでいて、設定とストーリー運びの巧さに唸った。石川家は建築家の一登とフリー校正者の貴代美という夫婦と、長男で高校生の規士と長女で中学生の雅からなる四人家族である。東京都市部と接する埼玉県の丘陵地に、一登自身が設計した自邸とそれに隣接したオフィスがある。「家は家族の形そのもの」が持論である一登にとって、自邸は自分の理想を具現化したものであり、クライアントに見せるショールームでもある。

 ところが、幸福そのものだった「家」は、規士が犯罪に巻き込まれることで危機にさらされる。少年の遺体が発見され、加害者たちは逃げている。規士もそのなかにいるらしい。家にはマスコミが押しかけ、外壁には何者かが生卵やペンキを投げつける。報道は過熱していき、一登はクライアントから仕事を断られる。名門私立高をめざしていた雅の進学も危ぶまれる状況になっていく。少年の喧嘩が家族や周囲の人びとを巻き込んでいく。

 やがて被害者はもうひとりいるという情報が流れる。規士は被害者なのか、それとも加害者なのか。ふたつの「望み」のあいだで、家族は葛藤する。わが子が人を殺すなんて考えられない、正しくいてほしいという気持ちと、たとえ犯罪者であってもいいから生きていてほしいと願う気持ちである。この場合、正しく生きることは死を意味する。

 そこには愛情だけで割り切れないものもある。被害者であるかそれとも加害者であるかによって、世間の目は大きく変わるからだ。規士が加害者であれば一登は仕事を失うだけでなく、家も財産も失うだろう。この町にも住めなくなる。被害者であれば同情は得られるだろうが、失ったわが子は帰ってこない。規士がどうなるのかは小説の最後であきらかになるが、あえてここには書かない。多くの読者もまた、一登や貴代美、雅とともに物語を追いながら、ふたつの「望み」のあいだで揺れ動くことだろう。

 わが子をどこまで信じられるか、あるいは誤りを犯したわが子をどこまで包み込んでやれるか。子の親であるとはなんと厳しいことだろう。それは殺人や傷害致死のような重大犯罪でなくても、たとえば万引き(窃盗)のようなことでも本質的には同じだ。筆者は書店員だったころ、さまざまな親を見た。万引きしたわが子を殴りつける親もいれば、悪い友だちにそそのかされたに違いないと言い張る親もいたし、万引きされるような店が悪いとこちらに食ってかかる親もいた。当時は呆れたが、雫井脩介のこの小説を読んで、あれもまた「望み」の形だったのかもしれないと思い返した。

 子は親の所有物でなく一個の人格だが、親から多くの「望み」を託されてもいる。

KADOKAWA 本の旅人
2016年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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