不自由な現代人が「今を生きる」ために――しなやかな死生観と痛切な倫理の模索

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しなやかな死生観と痛切な倫理の模索

[レビュアー] 出岡宏(専修大学教授)

 本書の著者、竹内さんを中心に何人かが集まって、季節季節に方々の秘湯に通っていた時期があった。山野に遊んで湯につかり、酒宴に蕩ける楽しく切なかったその会に、ある小さな特色があった。集まった数台の車を竹内さんが先導するのだが、この先達がまあ頻々と道を間違えるのである。どこを目指しているのか尋ねても照れ笑いを含んで要領を得ず、そのグループのMという名物男がよくそれをからかった。「あいつは人の道は教えても車の道は教えられないんだ」というのが、そこで生まれた名言の一つであった。

 というわけで竹内さんは人の道を説く倫理学者なのであるが、本書は道を説くというより、著者自身の、現代的でしかも喫緊の課題が模索されている本で(も)あるように感じた。

 ごく一部を見てみよう。例えば、啓蒙を説いた近代人も、大きな自然を「宇宙天然の大機関」(福沢諭吉)と呼んだ。それは私たちの「命」が、そこから現われそこへ還る「悠久の大有」(中江兆民)である。「大きないのち」とも呼ばれるそれらの全貌は私たちには掴みがたいが、私たち一人ひとりは「大きないのち」の小さな一部である。それは「一隅」(内村鑑三)とも、「一片」(高村光太郎)とも、「一滴」(志賀直哉)とも、「一節」(磯部忠正)とも表現されてきた。

「魂」も同様である。柳田国男は、大切に祀られた「魂」は何十年の後に田の神などの「大きないのち」へ還ると考えた。あるいは川端康成は、何十年先ではなく、眼前の「草木禽獣のうち」に、亡くした誰かを見出す主人公を描いた。それらはいずれも、「魂」を孤絶させることのないよう「大きないのち」に位置づくかたちで捉える思想であり、融和した「魂」が永く人々と交流できると考える死生観である。

 この「大きないのち」は、身近な草木禽獣のうちに感じられるものでありつつ、一方では、私たちに「命」を吹き入れ、いつか生を終えた私たちを迎えとる形而上の性質を含む何かである。それは先祖累代の連なりや何十億年の営みである生命一般のうちに、あるいはそれらが包含する目もくらむ数々の偶然の連なりのうちに見出される、ある種の形而上性である。それは、その在りようを断言できないし、しなくてもよい、しかし私たちがその小さな一部であることは素朴に感じられる、ゆるやかな形而上性なのである。

 だが、それにしても、宮沢賢治に「無声慟哭」があり、死にゆく国木田独歩に「流涕頬を伝うて嗚咽」する夜があったように、やはり死はつらく悲しく、怖い。

 本書の最後に「どこへゆくかわからない船出」である死においては、惜別に専心するから気が違わずに死ねるとの旨を述べた岸本英夫が紹介される。

 岸本は「サヨナラと言って死にたい」と述べたという。著者によれば「さようなら」とは、それまでの一切を確認する言葉である。そこでは別れの悲しみも極まるが、この語には「このさきどうなるかは問わないままに」「未来へと何らかのかたちでつながっていける」という思いもまた込められているという。著者はまるで(Mを含めた)大切な誰かに話しかけるように繰り返している。「こちらの世界を生き切ることは、あちらの世界の何かしらにつながる、だいじょうぶだ」「未来へと何らかのかたちでつながっていける、だいじょうぶだ」と。

「さようなら」は、「このさき」を「問わない」。しかし本書では「命」や「魂」を「大きないのち」の連なりにおいて捉える死生観も模索されていた。それは近現代の思想家の言葉から著者が再発見した死生観であり、多くの制約を切実に生きる不自由な現代人も恐らく受け入れることのできる、しなやかな死生観である。

 これは今を生きるための倫理でもある。私たちの短い一生は「大きないのち」の鮮烈な一滴である。互いがその一滴であることを知れば、「命」の鮮烈な交流は、今その瞬間ごとに可能だろう。本書の痛切な思想だと思う。

 ◇角川選書◇

KADOKAWA 本の旅人
2016年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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