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夜中に冷蔵庫をあけたくなる本たち 『こはだの鮓』ほか
[レビュアー] 縄田一男(文芸評論家)
斯界で“食”の場面を書かせたら右に出る者がいない、といったら池波正太郎であろう。
個々の作品の場合もそうだが、エッセイ集『むかしの味』(新潮文庫)など夜中に読もうものなら、冷蔵庫をこっそりあけたくなってしまうこと請け合いだ。
その池波正太郎を敬愛する山本一力も、“食”の場面が実にうまい。もともと直木賞を受賞した『あかね空』(文春文庫)前半のテーマは、京の豆腐職人が江戸へ下って京豆腐を広めようとする、という正しく“食”がそれであった。
そしてここに、二〇一三年、急逝した北原亞以子の未刊行作品集『こはだの鮓(すし)』が文庫版で登場となった。
表題作は、浅草諏訪町の葉茶屋でめし炊きをしている作兵衛が、顔馴染みの鮓屋から、売れ残ったこはだの鮓をもらったことではじまる。
作兵衛ははじめ、この大好物を、腹痛がするからと夕飯を断って湯屋へ行き、酒を買って台所の隣の部屋でこっそり食べよう、と計画を立てる。
ところが、自分が鮓を持っていることが知られたら、誰かに食べられはしまいかと、あちこちに隠したり、一つくらいいいだろうと口に運んだり、そうこうしているうちに、一つ食べ二つ食べ、とうとう二つになってしまう。
この時、作兵衛は、恐らく、泣き笑いをしたような情けない表情になっていたに違いない。
本篇の面白さは、鮓のうまさを描くのはもとより、“食”を通して我慢のきかない作兵衛のこっけいさを描いている点ではあるまいか。
それから本書のビッグボーナスは、名のみ伝えられながら入手不可能だった「ママは知らなかったのよ」が収録されている点であろう。
この作品は、第一回新潮新人賞を受賞したデビュー作。現代小説故にいままで継子扱いされ、どの作品集にも収録されなかったのだろうが、日常生活の落とし穴を描いて秀逸。
さらに、作者の新選組関係の長篇に連なる短篇等、よくまとめてくれたという他はない。