物語ることの物語

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ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語

『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』

著者
津島 佑子 [著]
出版社
集英社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784087716610
発売日
2016/05/02
価格
2,750円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

物語ることの物語

[レビュアー] 谷崎由依(作家・翻訳家)

 海を渡ったひとびとがいた。

 四百年前の日本、幕府の鎖国政策のもとで異教徒は弾圧されていた。キリスト教は禁じられ、キリシタンたちは拷問や虐殺にあった。富裕層もまた追放された。都から遠く離れた津軽まで。津軽には鉱山があった。

 一方で、蝦夷地と呼ばれた北海道ではアイヌたちが搾取されていた。和人との交易においては騙され、不当に使役されていた。その土地は松前藩の支配下に置かれていた。

 津軽へ連れてこられたキリシタンの両親から生まれた少年ジュリアン。日本人だが、洗礼名でジュリアンと呼ばれている。そしてアイヌの母から生まれたチカ。ほんとうの名前は、アイヌの言葉で鳥を意味するチカップだ。

 チカの来歴ははっきりとしない。父親はおそらく日本人の鉱夫、生まれて間もなく母親をなくし、やがて軽業師の一座に売られたらしい。口を利くこともできず、耳が聞こえているかもあやしく、周囲からは頭の弱い子どもだと思われていた。松前から津軽へ渡る船のなかで、ポルトガルから来た神父(パードレ)に引き取られることになる。津軽はタカオカというところで、パードレを待っていた信徒たちのなかにいたのがジュリアンだ。ジュリアンの両親は彼を、数少ない日本人パードレに育ててもらいたい、と申し出る。奥州から長崎まで、海伝いにゆくチカとジュリアン。その船上で、チカの喉からふいに歌がこぼれ落ちる。ハポ――アイヌ語で母の、かつて歌った歌だった。長崎でほかの信徒たちと合流し、ふたりはさらに遥かな海をマカオへと向かう。長く、苦しい船旅である。東アジアにおけるカトリック布教の拠点となっていたマカオには、ちょうどこのころ天主堂ができ、ポルトガルの権利が認められ、日本人も住んでいた。

 中盤までの、これがあらすじである。けれど小説はこのような言葉遣いで書かれるわけではない。ここにまとめたのは、言ってしまえば外から見た歴史の話である。物語は、そのなかにいる者たちの言葉で語られる。地名は漢字ではなくカタカナで、漢語よりもひらがなの多い、平易な文体で綴られる。歴史のなかに埋もれてきたひとびとの、心象を掬いあげるような。

 マカオで安住を得たかに見えたチカとジュリアンだったが、それも長くは続かない。セミナリオに入ったジュリアンはともかく、市井の信徒であるチカたちは、やがて中国本土の命によってマカオから立ち退きを迫られる。ある者はインドのゴアへ、ある者はマニラへと、キリシタンのべつの拠点をめざしてさらなる海を越えることになる。チカもまた、ある決断をする。――北海道からバタビヤまで、日本という島国からすれば、北の果てから南洋の彼方まで。壮大な地理的空間と、島原の乱やシャクシャインの乱といった史実を踏まえた時間のなかで展開されていく物語は、けれどもおそらくは、とても個人的な物語から出発している。題名の「ジャッカ・ドフニ」とは、「大切なものを収める家」のこと。サハリン少数民族ウィルタの言葉である。

 小説のぜんたいは、少し変わった構造を取っている。メインストーリーと言うべきチカとジュリアンの物語が冒頭からはじまるわけではない。冒頭は、津島さんそのひとを彷彿とさせる「わたし」という人物の語りではじまる。東日本大震災から半年後、「わたし」はカムイ・ユカラのルフランを胸のうちに聴きながら、ひとり網走へ向かおうとしていた。その「わたし」による語りの主体は、やがて「あなた」へ切り替わる。二〇一一年を二年前に見て、書き手(とほぼ同一視できそうな語り手)は、北海道を訪れた過去の自分へ「あなた」という二人称を与える。

 人称において、「わたし」と「あなた」はもっとも遠い距離を持つ。三人称だけで語られる世界がフラットな劇空間だとすれば(どこか〝お話〟めいたチカやジュリアンたちの物語がまさにそれだ)、「わたし」は舞台裏か奥にいて、「あなた」は客席にいるようなものだ。「あなた」は語り手自身でありながら、語り手そのものではない。たった二年とはいえ、時間という距離、その分厚く透明な硝子のごときもので隔てられた遠くにいる。と同時に、「わたし」から「あなた」へは、つねに呼びかけの、まっすぐの矢にも似た視線の線が描かれる。「あなた」を主体とするパートは、冒頭、中盤、結部に置かれる。一九八五年に女満別の地を訪れたとき、「あなた」は幼い息子のダアと一緒だった。父親はおらず、ひとりで育てていた。母子ふたりのその道中で訪れたのが、ジャッカ・ドフニ――ウィルタの習俗を集めた民族資料館だった。ウィルタの生き残りであるゲンダーヌさんという、実在した人物との交流。けれどその七ヵ月後にダアは事故で死んでしまう。

 あからさまな繋がりはない。けれど母をなくし、その歌っていた歌が浮かびあがるのを待ち続けるチカと、なくした息子の記憶を抱き続ける「あなた」の物語は、かすかだけれどそれゆえいっそう強い印象をともなって響きあう。バタビヤで自身も母となるチカが、出産のたびに思い出し、子どもたちの名前となる言葉――レラ(風)、ヤキ(蝉)、トム(ひかり)。それは文字を持たないアイヌの、懐かしい言葉の音だ。ジャッカ・ドフニのそばで撮った写真を、「あなた」はダアの納骨堂に飾った。一方で、チカップのなかにも「大切なもの」を収めた箱が在り続けたのだと思う。あるいは彼女そのものが、海を越えて運ばれたその箱だったのであると。

『光の領分』や『寵児』、『黙市』といった作品を愛読してきた者にとって、個人史的な手触りの「あなた」のパートは、とりわけ読みすごすことができない。けれど気をつけたいのは、それがたとえば癒しといったものに向かっていかないことだ。それは最終的に、ふたたび「わたし」へ回帰するものではない。むしろひたすらに過去へと遡り、「わたし」からさらに遠い、いまだダアを知らず、そしておそらくまだ作家でもなかったころ、はじめて網走を訪れた二十歳のころの時間において、ふっつりと切れる。けれども切れたその先にはすべてに繋がる海があり、歌は、漠々としたその広がりをどこまでも渡っていく。

 物語ることについて。歌を、言葉を繋いでいくということ、そしてその仕方について。津島佑子さんの遺したおおきな問いを、わたしたちは、考え続ける。

新潮社 新潮
2016年8月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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