『松本城、起つ』
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『海と山のピアノ』
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『松本城、起つ』六冬和生/『海と山のピアノ』いしいしんじ
[レビュアー] 石井千湖(書評家)
城というものはどこか人の姿に似ていて、すでに建っているのに立ち上がりそうな気配がある。六冬和生『松本城、起つ』(早川書房)は、国宝の名城にまつわる史実と伝説を題材にした時間SFだ。
ある夏の日、信州大学に通う巾上岳雪は、模試の結果を聞くため、家庭教師先の女子高生・矢諸千曲に会う。ところが千曲は何も報告せず、岳雪を松本城へ連れて行く。ふたりが城を見学しながら実際にあった貞享騒動という百姓一揆や二十六夜神の言い伝えについて話していると、突然、建物が大きく揺らぐ。気がついたとき、岳雪は貞享騒動が起こった一六八六年の松本にいて、鈴木伊織という武士になっていた。一方、高校の制服を着たままの千曲は、人々に二十六夜神と間違われてしまう。
お人好しで諦めの悪い岳雪と、すっとぼけた可愛らしさのある千曲が、年貢の減免を求めて立ち上がった農民たちを救うために奔走する。〈結果というのは生き延びたという実績だ〉〈明日をもたらさないものは、それがどんなに得難いものだろうが感動的だろうが、そう感じる情操さえも虚無に還してしまう〉という岳雪の言葉が刺さった。自分が何をしても変わらないように見える世界で、どうやって生き延びる力を得るかという問いを投げかける物語だ。倒壊しかけた城を現代まで生き延びさせている松本という土地の力も伝わってくる。
いしいしんじ『海と山のピアノ』(新潮社)は、人間が生きるために欠かせないけれど、怖ろしいものでもある「水」を描いた短編集。九つの話が収められている。著者も住んでいた神奈川県の港町・三崎から、川を棺桶にする風習があるアフリカの村まで、舞台はさまざま。水は内と外、現実と夢、生と死の境界を越えて、あらゆるところへ流れ、沁み込んでいく。
表題作は海岸に打ち上げられたグランドピアノのなかで眠っていた不思議な少女の話だ。口をきかない少女は「ちなさ」と呼ばれ、語り手の「僕」の中学校に通うようになる。休みの日に学校に行った「僕」は、音を楽しむちなさのために歌をうたう。〈手足を動かし、音のこどもと遊んだあとのからだは、空気の通りのよい一本の角笛になった。ふだん気にかかってるよしなしごとがさっぱり取り払われ、さらさらの空洞になった喉を、あたたかな風が通りぬけた〉というくだりが心地いい。子供のころから馴染みのある「われは海の子」が、とても新鮮で美しい歌に思える。
やがて山で起こった事件が引き金となって、思いがけない贈り物もよこしてくれる海が、得体の知れない一面をあらわにして荒れ狂う。危機を察知したちなさが、グランドピアノを押して海へ向かう終盤は圧巻。波が、音楽が、歌が、ばらばらに切り離された世界をつなぐのだ。