「信長さまはもういない」 生真面目な池田恒興に遺された“秘伝書”
[レビュアー] 縄田一男(文芸評論家)
題名に偽りなしで、プロローグが「姉川の戦い」、第一章が「本能寺の変、山崎合戦」で、信長は早々に退場してしまう。
主人公は信長配下の武将で生真面目だけが取得の池田恒興。
恐らく長篇小説の主人公となるのは本書がはじめてで、こういう人物を発掘して独自の味付をした点で、この作品はもう半ば成功した、といっていい。
その恒興、信長から、
「貴様はどうも面白うないぞ」
といわれ、一冊の帳面を与えられる。
それは信長が徒然に記した覚書きであり、「わしが戦や政において感じたものを書き留めたもの」で、
「大したことは書いておらぬが、今の貴様には充分すぎる代物であろう。これを読み、わしの思うところを理解せねば―、わしは貴様のことを断じて許さぬ」
と、いわば宿題を出されたままで逝かれたことになる。
この一冊の帳面は、恒興にとっては正にバイブル。〝秘伝書〟と名付けて肌身離さず持っていることになる。
そして前述の如く、本書もあまたある信長物語と同様、山崎合戦から清洲評定と続いていく。
しかしながら、只一つ違うのは、恒興が重要な判断を下すとき、常にくだんの〝秘伝書〟を拠りどころとしている点なのである。
ところで、信長はあれだけのジェノサイドをやってのけた男だが、稀に見る天才であったことは言をまたない。つまりこの作品のテーマは、信長という一個の天才に仕えるよろこびを知ってしまった男の悲喜劇なのではあるまいか。
そしてラスト、恒興は、これまでとは別種の歓喜の中で死んでゆく。それが何であるかは、読者諸氏が確かめられたい。
とまれ、彼はこの人生に満足してあの世へと旅立つ。
こんな信長物語は、これまでになかったといえよう。