人が生きるということの根源を描く

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人が生きるということの根源を描く

[レビュアー] 河合香織(ノンフィクション作家)

本を閉じた後に、実際の時間よりも、ずいぶんと長い時間が経ったような気がした。六〇〇ページを超える大部の著だからではない。幼い自分の悲しみの記憶がよみがえって体が冷たくなったり、セラピーを受けたかのような深い癒やしと信頼感が溢れ出してきて、圧倒されたりもした。まるで自分の心の奥を旅してきたような気持ちになった。トラウマの本はこれまでにも読んだことはあったが、このような本は初めてだった。
それは、本書がトラウマ研究と治療に長年取り組んできた世界的に高名な精神科医による書であるだけではなく、著者が一人の人間としてどのようにトラウマ治療と向き合ってきたかという自伝的な語り口で誠実に描かれているからであろう。
〈トラウマ(心的外傷)と出合うのには、兵士として戦闘に参加する必要もなければ、シリアやコンゴの難民キャンプを訪れる必要もない。トラウマは、私たちにも、家族にも、友人にも、近所の人にも降りかかるからだ〉
とプロローグに書かれているが、著者自身、ナチスによる投獄を経験した父親と、幼少期を語ることさえできないほどのトラウマを持つ母親の間に育った。個人的な問題を解決するためにメンタルヘルスの専門家になったのではないかと周囲の人からは思われていたほどだ。そんな彼が新米の精神科医として一九七八年にベトナム戦争の帰還兵の激しい後遺症を目の当たりにしたところから、本書は始まる。幼児期に受けた性的虐待や身体的虐待の再現行動を、成人しても繰り返してしまう人たちも少なくなかった。しかし、当時刊行された権威ある精神医学の教科書には、〈近親姦行動は、当人が精神病になる可能性を減じるとともに、外部世界への適応状態を向上させる。……大多数は、その体験から何らの害を被ることもない〉と書かれていたというから驚く。トラウマに理解が浅かった時代から、著者が脳科学を駆使し、他分野の専門家とも連携し、トラウマにさらされた脳がその後どのような働きをするかを実証していった勇敢な軌跡が浮かび上がる。
なかでも特に心を奪われたのは、第5部の「回復へのさまざまな道」であった。どうすれば深い傷を背負い続けている人がトラウマから回復し、今の人生に目を向けて生きられるようになるのか。自分に手紙を書く、ヨーガ、演劇などから、素早い眼球運動によるEMDRという方法や、脳の反応を正常化させるニューロフィードバックといった治療方法も紹介される。効果があると聞けば、著者自身がすぐに治療法を試し、取り入れ、そして脳画像研究によって実証していくその熱意に圧倒された。
鍵は身体的感覚とのつながりを取り戻すことだという。自分の体内の感覚になじみ、その感覚と親しんで初めて回復が可能になる。そして、自分を鎮める最も自然な方法は、誰か別の人にしがみつくことだ。人を傷つけるのも人であるならば、回復させるのも人なのだ。人間の持つ回復力に驚くとともに、私たちは骨の髄まで社会的な生き物なのだと再認識させられる。
著者はトラウマの手引きとしてだけではなく、一種の呼びかけとして本書を書いたという。トラウマの実情に本気で対峙し、社会としてどうすれば防止できるのか。児童虐待の問題にかかる費用の合計は、癌にかかる費用や心臓疾患にかかる費用も上回り、アメリカでは児童虐待を根絶すれば、うつ病の割合を半分以上、アルコール依存症を三分の二、自殺や静脈注射薬の使用、家庭内暴力を四分の三も減らせるという。たばこの害の啓蒙活動では、八〇万人の人を肺癌による死亡から救ったと推測されているというが、トラウマで同じことができないだろうか。また、安易に薬物に頼る精神医学にも警鐘を鳴らしている。
紹介されるトラウマは想像を絶し、目をそむけたくなるものが多い。どうして人はこんなに残忍になれるのかと暗澹とする。そんな殺伐としたなかでも、本書の読後感を清冽な印象にしているのは、著者のサバイバーに対する一貫したあたたかいまなざしである。
〈トラウマを癒やす仕事を可能にしているものは一つしかない。それは畏敬の念だ。患者が虐待に耐え、それから回復への道のりにはつきものの魂の闇夜にも耐えることを可能にした、生存へのひたむきな努力に対する畏敬の念なのだ〉
どのような苦しみにあっても、生きようとする人間の崇高な姿に感嘆する。自分を切りつけようと、アルコールで酩酊しようと、それでも生きるために、生きたいがためにもがいているのだ。トラウマにとどまらず、本書には人が生きるということの根源が描かれており、人間の生命力の強さに一筋の希望を見る思いがした。

紀伊國屋書店 scripta
autumn 2016 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

紀伊國屋書店

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