たまには神に思いを馳せて 阿刀田高/佐藤優『ゼロからわかるキリスト教』刊行記念特集

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ゼロからわかるキリスト教

『ゼロからわかるキリスト教』

著者
佐藤 優 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784104752119
発売日
2016/10/31
価格
1,320円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

たまには神に思いを馳せて 阿刀田高/佐藤優『ゼロからわかるキリスト教』刊行記念特集

[レビュアー] 阿刀田高(作家)

 日本人は宗教に対する関心が薄い。祭儀のためにのみ関わっているケースが多い。欧米社会を席巻するキリスト教についても、

「新約聖書と旧約聖書のちがいは、なんなの?」

 初歩的な質問にも答えられなかったり、

「カトリック教会の牧師さんがいらして……」

 などと不正確な言葉を発したりする。イスラム教やユダヤ教など他の宗教についても信者や専門家を除けば、すこぶる知識が乏しい。宗教について、もう少し思案を深めてもよいのではあるまいか。

『ゼロからわかるキリスト教』は、そんな懸念に応えて博覧強記の著者が新潮講座で語り、それをまとめた一書である。“ゼロからわかる”とタイトルを置きながら、いま述べたような初歩的な疑問やまちがいに入念に手をさしのべるものではない。むしろ宗教とはなんなのか、信仰とはどうあるものなのか、長い歴史の中で宗教がどう機能し、あるいはどう機能を怠ってきたか、などなど該博な知識と理論を開陳する著述と見たい。だから、あえて言えば、この“ゼロからわかる”は“初歩から”ではなく“基礎から”と解するのが正しいように私は思う。

 そもそもがレッスンの受講者を相手に語ったものだから、平易なトピックスも散見される。「イスラム国」を語り、ピケティの『21世紀の資本』に触れ、ヤン・フスの火刑をたどり、“クリティーク”という言葉の本義などにも筆を伸ばしている。因(ちな)みに言えば“クリティーク”は、反対を前提とする批判ではなく“相手の言っていることが何であるかを対象としてまず認識する。できるだけ虚心坦懐(きょしんたんかい)に認識して、それに対して自分は賛成しているのか、反対しているのか。基本的に賛成だけれども、あそこの部分は賛成できない。あるいは全体的に賛成だけど、さらにこういったことを付け加えたい。そんな具合に、対象として客観的に受け止めた上で自分の評価をしていくことを指す言葉なのです”と、わかりやすい。こういう知識が随所に散っているのも魅力の一つである。

 そして本論はマルクスへ。第一章ではマルクスの名論文「ヘーゲル法哲学批判序説」を丁寧に解説している。マルクスは「宗教は民衆のアヘンである」と言って宗教を批判した立場であり、もちろん無神論者だったろう。しかし現代の神学は、この無神論者の宗教批判に論拠を得ている、と佐藤優氏は断定しているのだ。そこがかなりややこしいが、おもしろい。

 佐藤氏自身がプロテスタントを信ずる母のもとで育ち、マルクスに出会って無神論に傾き、しかしその無神論を熟慮することにより確固たるキリスト教徒になった、というキャリアの持ち主なので、このあたりの論述には体験を通した深い思考が含まれているのである。

 著者は言う。“マルクスのこの宗教批判を認めない牧師や神学者がいるとするならば、三つの可能性がある。一番目の可能性は、うんと不勉強な神学者で、まるでこのへんのことを知らない。二番目は、ファンダメンタリズム、すなわちキリスト教根本主義(原理主義)の牧師や神学者。三番目がすごく複雑になるけども、たしかに宗教というのは、人間が自分の願望を投影した幻影であり、幻像である。宗教は人間のつくるものだ。そのことを認めた上で、しかし人間というのは、こういう幻影なり幻像なりをつくらざるを得ない、そんな存在なんだ。そんな理解をしている人”。この三番目の例としてカール・バルトを挙げ、多くを語っているが、著者自身の立場も、この『ゼロからわかるキリスト教』の骨子もこれに近いと見てよいだろう。

 第二章は“神の声が聴こえる時”と題して、宗教の本質は直感と感情であり、“神の居場所は心の中である”という立場から、神の声を聞き分けた実例をあれこれと多彩に論じている。これに立てばヒューマニズムも神を人間に代えたものにすぎないと著者の思案は大きく広がっていく。

 私はと言えば、信仰を持たない身ではあるが、この世のどこかになにか絶対的なものがあって、それによって人間が生かされ、社会が営まれているような、そんな気分に陥るときがある。それを神というなら無神論者ではないのかもしれない。

 本書の中に展開される思考は、ときに飛躍があってわかりにくいところもあるが、合理の人である著者には筋道があるにちがいない。薄紙をはぐようにそれを入念に追い求め、それとはべつに、いかにも教室の講義らしい雑談が……マルクスの収入源とかバルトの愛人のこととかが語られ、これが滅法おもしろい。多彩なエピソードを楽しみながら、たまには神について思いを馳せてみるのもよいではないか。私はそのように読んだ。巻末に「ヘーゲル法哲学批判序説」が置いてあるのは、ありがたくも本書にふさわしいサービスである。

新潮社 波
2016年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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