檀ふみ 「咄咄(とつとつ)」たる話

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檀ふみ 「咄咄(とつとつ)」たる話

[レビュアー] 檀ふみ(女優・エッセイスト)

 古典落語に、「百川(ももかわ)」という江戸の料亭を舞台にした傑作があるという。

 本書を読んでいたら、むらむらと聴いてみたくなって、この噺をさせたら右に出るものなしと言われた六代目三遊亭圓生のものを探し求めて、聴いた。聴き惚れてしまった。

 もともとは、店の宣伝のためにと、実際にあった出来事を下敷きに、「百川」が出入りの文人たちに創ってもらった噺であるらしい。そう言われれば、たしかに笑いのうちにも、「百川」という店の輪郭がくっきりと浮かび上がる仕掛けになっている。

 まずは、田舎者の実直さを好んで雇い入れる、主人の懐の広さ、品のよさ。さらに客は魚河岸の若い衆で、リーダー格ときている。この店に、イキのいい魚が入っていないわけがない。加えて、間違って呼ばれてしまい、押っ取り刀で店に駆けつけるのは、御典医も務めたほどの実在の名医。「百川」の実力、格式がそれとなくほのめかされている。

 だがそう思うのは、本書であらかじめ、料亭「百川」についての知識を、たっぷりと仕込まれていたからかもしれない。

「百川」だけではない。江戸のなりたち、江戸の食文化、江戸人の酒の飲み方、「下戸」「左利き」「トラ」の語源まで、本書にはウンチクが満載である。

 家康は魚が大好物って、ご存知でした? 日本橋に魚河岸が発展したのは、そのおかげといっても過言ではないらしい。魚河岸の周辺には、当然、それを食べさせる店もあらわれる。日本橋浮世小路の「百川」は、その筆頭といってもいい。

 浅草山谷の「八百善」もまた、とびきり有名な江戸の料亭だけれど、「百川」のライバルというわけではなかった。ざっくりと言ってしまえば、格調の「八百善」、気楽な「百川」。「百川」では当たり前だった遊興の酒宴も、格式を重んじる「八百善」では眉をひそめられた。料理も「八百善」には「真剣勝負」の趣があったようで、お茶漬け一杯を所望すると、花魁の揚げ代よりも高い料金を請求されたという話が紹介されている。そんな店に、気楽に通えます?

 というわけで、「百川」には、「八百善」とは違う常連がやってきた。とりわけ、文人墨客が贔屓にしており、大田南畝、山東京伝、谷文晁、酒井抱一、十返舎一九など、錚々たる名前が並んでいる。店の主人、百川茂左衛門の教養と懐の広さによるところも大きかったのだろう。

 なかでも大田南畝を中心とする文人一派(山手連)が、毎月「百川」で開いていたという、「咄咄会(とつとつのかい)」のエピソードが面白い。

 南畝の命名による「咄咄」とは、「おやおや」とか「えっ」、「ぎょっ」、「ほほーお」といった意味。その会では、それぞれが「咄咄」たる話を持ち寄り、提供し、全員がその話に加わって「咄咄」する慣わしだったという。

 だがさて、なんといっても「百川」は料亭なのである。いちばん興味のあるのは、もちろん料理である。そこはもちろん、「味覚人飛行物体」と呼ばれる著者に、ぬかりはない。「カリカリ」「ムシャムシャ」「チュルチュル」などと、オノマトペが炸裂しはじめると、著者の面目躍如。ことに、南畝をはじめとした「山手連」が改良に関わった「百川」秘伝の調味料「浮世之煎酒」のくだりは圧巻で、これは、是非とも作って試してみなくてはと、私はひそかに決意したことである(この本と一緒に、小泉先生が作って、売り出してくださるのがいちばんなのですが)。

「百川」の評判は、幕末には押すに押されぬものとなっていたのだろう。黒船でやってきたペリー一行を饗応するのに、幕府が白羽の矢を立てたのも「百川」だった。

 もちろん名誉なことである。しかし、厄介なことでもある。アメリカ側三百人分、接待する日本側二百人分、合計五百人分。しかも、出張である。大皿、小皿、丼、小鉢、杯、銚子……アメリカ人をうならせるような豪華なものを、すべて運び込まなければならない。

 茂左衛門は、ここでも懐の広さ、度量の大きさを見せる。九十種を超える本格的日本料理を、五百人前。お口に合ったかどうかはさておいて、見事にやり遂げたのである。

 そこからは、ミステリーとなる。隆盛を極めていたはずの「百川」が、明治維新以降、忽然と姿を消してしまったのは、一体なぜか。

「咄咄」たる話に満ちた一冊である。

新潮社 波
2016年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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