職務と正義感の狭間で葛藤する元刑事が挑む巨大企業の“闇”

レビュー

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黒い紙

『黒い紙』

著者
堂場 瞬一 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784041036457
発売日
2016/09/30
価格
1,836円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

職務と正義感の狭間で葛藤する元刑事

[レビュアー] 千街晶之(文芸評論家・ミステリ評論家)

 堂場瞬一は警察小説とスポーツ小説という二つの分野で特に人気を博している作家だけれども、実際のところは、この二つに収まらないさまざまな種類の小説を手掛けている。著者の新刊『黒い紙』で描かれるのは、調査員の目を通した巨大企業の世界だ。

 元神奈川県警刑事で、今は企業の危機管理を専門とする会社「TCR」に調査員として勤める長須恭介は、社長の光永護から、顧客である大企業「テイゲン」に脅迫状が送られてきた件の対処を任された。脅迫状は、テイゲン会長の糸山が旧ソ連のスパイであり、三十年前に旧ソ連の軍人アントーノフ少尉が島根県松江市に亡命した「Su-25MM事件」にも関わっていたと指摘していた。

 間もなく経営同志会の会長に就任し、日本のサラリーマンの頂点に立とうとしている糸山にとって、この件の対処を誤れば命取りになりかねない。長須は脅迫状の内容が事実か否かについて調査を開始した……。

 ソ連の軍人が日本に亡命した事件としては、一九七六年九月、ヴィクトル・ベレンコ中尉が北海道の函館空港に迎撃戦闘機で着陸し、後にアメリカに亡命したミグ25事件がよく知られている。翌年にはクレイグ・トーマスが早速この事件にヒントを得て『ファイアフォックス』という小説を発表、クリント・イーストウッド監督・主演で映画化もされたほど、冷戦期の世界と日本に衝撃を与えた出来事だった。本書で描かれる架空のアントーノフ少尉亡命事件が、冷戦末期にあたる一九八六年の出来事と設定されているのは、これより時代背景を古くすると登場人物の年齢の問題で話が成立しにくくなるという計算によるものだろう。

 長須は糸山会長本人をはじめ、テイゲンの幹部や社員に接触を図るが、次期社長の座をめぐる二人の副社長の対立などの複雑な事情もあり、会社の姿勢は揺れに揺れる。もし本当に糸山がスパイなら一大事だが、TCRにとって大事なのは悪事を暴くことではなく、顧客であるテイゲンの利益を守ることであり、場合によっては不正を黙視しなければならない局面もあり得る。警察官だった頃の正義感が抜けきらない長須は、そのような会社の方針に抵抗感を拭えない。

 長須は同じ神奈川県警の警察官だった父親の殉職を機に退官し、自暴自棄の状態にあったところを、同様に神奈川県警OBである光永の誘いで今の仕事に就いた。TCRの他の社員も、前職は同じ警察官だったり、あるいは弁護士だったりと多種多様ながら、いずれも訳ありの過去を抱えており、物語が進むにつれて、TCRが実は彼らの再生の場として光永が用意した会社であることが明らかになってゆく。テイゲンという社員三千人を超す一流企業の暗部を目の当たりにし、自身の正義感と危機管理会社の社員としてなすべきこととの狭間で葛藤しつつ、長須がこの新たな職場のやり方に納得できるのか否かが本書の大きな読みどころだが、更なる彼の成長が描かれた続篇も読んでみたい。

 長須の倫理的な葛藤と並んで注目したいのが、彼の調査方法である。終盤はアクションも用意されているものの、地道な調査で占められている小説だが、その過程自体が面白い。長須は同僚の助けも借りつつ、基本的には独力で事態に立ち向かい、脅迫状に添付されていたワープロ書きの書類などを手掛かりに調査を続けてゆくのだが、現在四十六歳の評者にとって特に興味深かったのは、三十四歳の長須がワープロを完全に過去の遺物と認識している点で、干支が一回り違うだけでこうも認識が違うのかと些か衝撃を受けたことを告白しておく。上の世代が当然知っていることを知らない主人公の若さと、調査すべき出来事が三十年前に起きているという前提とのギャップもまた、彼の調査の道筋に複雑な紆余曲折を加えているのである。

KADOKAWA 本の旅人
2016年10月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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