大澤真幸は 『日本国民であるために』で示された「探求の過程」には 人が学問・学識を身につけようとする理由をも描かれていると説く

レビュー

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日本国民であるために

『日本国民であるために』

著者
互 盛央 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
社会科学/政治-含む国防軍事
ISBN
9784106037917
発売日
2016/06/24
価格
1,404円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

大澤真幸は 『日本国民であるために』で示された「探求の過程」には 人が学問・学識を身につけようとする理由をも描かれていると説く

[レビュアー] 大澤真幸(社会学者)

大澤真幸

 原点には、たいていの人が子どもの頃から、あるいは大人になってからも抱く身近な疑問がある。列に割り込むことは、なぜいけないのか。学級委員の選挙で自分に投票することはずるいことなのか。2015年の夏、安保法制に反対するデモを見ながら、一方で、政府のやり方はひどいと思い、他方では、デモしている人たちにも賛成しきれない自分がいたのだが、一体どこが腑に落ちなかったのか。なぜ自分が選んだわけでもない「日本人であること」が理由で、過去の日本人が犯した罪に責任を負わなくてはならないのか。
 こんな素朴な疑問から発して考えを深めていくうちに、問いがどんどん一般性の度合いを高め、ついに、「国家がなぜできたのか」等の基本的な政治哲学問題に、著書である互盛央(だがいもりお)なりの回答を与えるところまでくる。
 探究の過程で、西洋や日本の重要な思想家や学者の議論が、次々と呼び出されてくる。ホッブズ、ロック、憲法学者たち、丸山眞男、尾高朝雄…。しかし論述には、衒学的な虚飾はまったくない。ただ考え続ける中で、どうしても必要だという理由によって、これらの学者の説が参照される。
 本書はこう強調する。「統治する者が統治される者であり、統治される者が統治する者である体制」という民主主義の定義が無意味な同語反復にならないのは、統治する者としての国民と統治される者としての国民の間には区別があるからだ、と。前者は、「私たちとしての私」であり、後者は「私としての私」だ。したがって、民主主義においては、個別意志(個人の意志)に「一般意志(私たち)」(ルソー)が、権利問題(≠事実問題)として先行している。一般意志は、多数派の意志でもなければ、全員の意志の合計でもない。それは、構成員の集合を不可分で単一の全体とみなしたとき、そこに帰せられる意志である。互は、一般意志を、ソシュールが、「パロール」(個々の発話)に対して「ラング」(日本語とか英語とかといった言語)と呼んだものと類比させている。
 本書によると、日本国憲法の成立過程を追うと、日本の立法者は「主権なき主権者」であり、主権(の一部)は日本の外へと流出し、アメリカが行使する形式になっていることがわかる。では日本人は何をなすべきなのか。本書は提案する。憲法の前文を今ここで読もう。
 そこに何かよい道徳的教訓が書かれているからではない。これを読むことが、行為遂行的に(つまりその発話行為をしているということの論理的な前提として)「私たち人民」を立ち上げることになるからだ。「私たち人民」とは、一般意志の担い手となる、不可分・単一の全体のことだ。
 本書の主張のすべてに納得したわけではないが、私は、ここに示された探究の過程そのものにとても好ましいものを感じた。私たちは、何のために学問をしたり、本を読んだりするのか。本書は、それを実例によって教えてくれる。ここで、学識が、真に切実な問いの中で受肉し、活きているのがわかるからだ。

 ***

『日本国民であるために』
著者・互盛央は1972年生まれの思想史学者。かつて岩波書店『思想』編集長を務め、2014年には『言語起源論の系譜』(講談社)でサントリー学芸賞を受賞した。本書では「電車で割り込みをされたとき、あなたは何を思いますか?」などといった実例から、民主主義の原理を追究する。新潮選書。1404円

太田出版 ケトル
VOL.32 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

太田出版

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