佐藤優は『伊藤くんA to E』が描く誰からも傷つけられない人生の歪みを思い知る

レビュー

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伊藤くんA to E

『伊藤くんA to E』

著者
柚木 麻子 [著]
出版社
幻冬舎
ISBN
9784344024588
価格
1,404円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

佐藤優は『伊藤くんA to E』が描く 誰からも傷つけられない人生の歪みを思い知る

[レビュアー] 佐藤優(作家・元外務省主任分析官)

佐藤優

 自己愛が極端に肥大しているが、自分に自信がない者は、さまざまなトラブルを引き起こす。伊藤くんは、有名大学を卒業した後、予備校の非常勤講師をつとめている。実家が千葉の大地主なので、経済的な不安はまったくない。売れっ子脚本家になることを夢見て、一昔前、テレビドラマの脚本で爆発的に売れたが、現在は忘れ去られかけている莉桜の仕事場兼自宅で行われる勉強会に参加している。伊藤くんが、莉桜を含む5人のおりなす壊れかけた人間関係を描いた名作だ。5人の女性側からの独白という形態で、伊藤くんA、伊藤くんBという形で5種類の伊藤くんの物語を展開することによって、伊藤くんの異常性が際立つ構成になっている。クライマックスは、最終章「伊藤くんE」で、伊藤くんが自らの人生観を吐露すると共に暴力性を爆発させるところだ。
 〈伊藤は甲高い声で笑い、赤くなった目をきょろきょろさせている。
 「勝つよりも、世の中にはずっと大事なことがあります。なんだと思います。誰もが見落としています。きっと、あなたには、わからないだろうな」
 息が苦しい。この部屋には酸素がまったくない。新鮮な空気が吸いたい、と初めて思った。しかし、窓を開けても砂嵐が吹き込んでくるだけだ。
 「誰からも傷つけられないということなんですよ」
 ゆっくりと、一語一語区切るように彼は言った。自分が言っていることにかつてないほど確信を持っているらしく、瞳孔が開き切っている。
 「テレビも映画も小説も『傷つくことを恐れるな』と言い続けているけど、それは強者主導のルールですよ。傷ついても平気な顔で生きていけるのは、恥をかいても起き上がれるのは、ごく限られた特殊な人種だけなんですよ。そのことに誰も気付かないから、不幸が起きるんです。大抵の人間が夢を叶えないまま死ぬのは、夢と引き換えにしてでも、自分を守りたいからですよ。楽しいより、充実感を得るより、金を稼ぐより、傷つけられない方が本当は重要なんですよ。僕もそうです。でも、他の人と違って、ちゃんとそれを認めているし、隠すつもりももうないんです。自分から誰かを好きになったりしません。自分から誰かを好きになったら、どんな人間でも恥をかくようにできている。あの久住君だって無様そのものじゃないですか。誰からも下に見られたり、莫迦にされたり、笑われたりしたくないんです。傷つける側に立つことがあっても、その逆は絶対に嫌なんです。そのことを認めるのに、かなりの勇気が必要でした。我ながらみっともないとも思いました。周囲と比べて落ち込んだし、実際、色々なことをあきらめました。でも、この数年で、そう決めたんですよ」〉
 伊藤くんは、自己愛が過剰で、攻撃的になるが、傷つける側になっても逆には絶対にならないという人生観に基づいて、決して競争の土俵に乗らず、常に「勝者」であろうとする。こういう歪んだ心理を持った持った人は、読者の周囲にもいると思う。

 ***
『伊藤くんA to E』
本書は、顔はいいが、自意識過剰、無神経すぎる男・伊藤に恋心を抱く5人の女性から見たA〜Eの5種類の伊藤の姿を描く。幻冬舎、2015年刊

太田出版 ケトル
VOL.32 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

太田出版

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