寄藤文平は『バーナード・リーチ日本絵日記』から「感じの良い」字と「民芸」について考える

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寄藤文平は『バーナード・リーチ日本絵日記』から「感じの良い」字と「民芸」について考える

[レビュアー] 寄藤文平(アートディレクター)

寄藤文平

 ふと、知人が机の上に置き忘れた本のタイトルのレタリングがとても良い。『バーナード・リーチ日本絵日記』と書かれている。僕はバーナード・リーチという名前をまったく知らなかった。
 そのレタリングは本人の手書きのものらしい。手書きの文字というのは、画材や用具のつくりだす偶発性や即興性に溺れて、論理的に批評したり洗練させることが難しい。結果的に、「本人が書いた」という事実だけが神格化されて、「本人が書いていればなんでもあり」になってしまうか、もしくは何十回も書き直しているうちに本来の鮮度が失われ、「フリーハンド感」を加えただけの工学的な形式になってしまう。
 その点、バーナード氏の文字は、全体が意識的な秩序によってバランスが保たれていて、しかしその秩序が前景化しないように、慎重に手書き文字の鮮度を生かしてフォルムを決着させている。その決着のさせ方は長い訓練を感じさせるもので、さらに身体的な訓練だけではない見識の切磋を感じさせるものだった。このように書くと、エセ批評文みたいで嫌だけれども、ようするに「すごく感じの良い字」なのである。
 バーナード氏は何度か日本に来て、「民芸」という概念を日本の中で育てていくために活動したらしい。この本は、滞在中のいろいろな雑感がまとめられている。何かを学ぶというより、文章の全体から滲み出てくる、「感じの良さ」を味わうような本だ。
 「感じが良い」というのは、「美しい」ということの脇にあるけれども、まったく別というか、時には対立する種類のものだと思う。「美しい」というベクトルが持っている陶酔というか潔癖さみたいなものに対して、それを「恥ずかしい」とか、「いけすかねぇ」とか、「でもちょっと憧れちゃうなぁ」といったベクトルがある。「感じが良い」というのは、そういういろんなベクトル全体と関係しつつ、しかしどのベクトルでもない、もつれた方向性を持った感覚だ。
 長野県松本市の美術館でバーナード氏の展覧会があるというので見に行ってみた。正直、何も感じるもののない展覧会で、氏の活動の痕跡を美術館で展示するのが間違いだと思った。そもそも氏が求めたのは「美」ではない。後に聞いたところによると、数年前、日本では民芸ブームというものがあったらしい。バーナード・リーチという名前は、いまさら話題にするのも恥ずかしい基礎知識なのだそうだ。なるほど、この作品を美術館で展示するなどという倒錯は、そういうブームの余波であったかと腑に落ちた。
 展覧会の資料の中で松本民芸館という場所があると知り、そっちにも立ち寄ってみることにした。そこでまた「すごく感じの良い字」に出会った。丸山太郎さんという、その民芸館を作った館長さんの字だった。僕は民芸というものについて詳しくないけれども、どうもこの「感じが良い」という感覚がその中心線にあるような気がする。というより、その感覚の器として「民芸」があるのだろう。

 ***
『バーナード・リーチ日本絵日記』
東西の伝統を融合し、独自の美の世界を創造したイギリス人陶芸家バーナード・リーチが、19年ぶりに日本に訪れた際の旅日記。濱田庄司、棟方志功、志賀直哉、鈴木大拙らと交遊を重ねながら、各地の名所や窯場を巡り、絵入りの日記を綴る。講談社学術文庫。1242円

太田出版 ケトル
VOL.32 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

太田出版

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