『イエスという男』
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橋爪大三郎は田川健三の『イエスという男』には「神の言葉」が生む悩みを理解するカギがあると称える
[レビュアー] 橋爪大三郎(社会学者)
イエス・キリストは神か人間か。
キリスト教会の答えはこうだ。神で、そして人間。イエスは神のひとり子で、《天より降り、聖霊によっておとめマリアから肉体をえて人となり、…》(ニケア信条)。このように信じなさい。
長い間人びとは、これで満足していた。だが近代の聖書学が、聖書の編集事情を明らかにしたので、考え直さなければならなくなった。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書。この四冊が、イエスについて知りうることのほぼすべてである。だが四冊は内容が食い違う。ヨハネはイエスこそ神の子だと疑わないが、マルコはあいまいで復活したとものべていない。イエスが神の子だという考えは、どうやら初期教団のなかでだんだん固まっていったものらしい。
こんな研究をする聖書学とは、人間が寄ってたかって聖書を編集したとみなす社会学で、ほとんど無神論である。近代聖書学や神学を学ぶ牧師は、信仰と科学のはざまで悩むことになる。
福音書があてにならないとしても、イエスは実在したではないか。神を信じ、弱者を愛し、死を恐れず権威に挑戦した。人間イエスと彼の信仰こそ信ずるに値しないか。
田川建三の『イエスという男』は、わが国におけるこうした数少ない原則的な聖書学者の、代表作である。説教壇で「神はいない」とのべたという。彼によれば、イエスを神格化し神だと拝むのは、偶像崇拝の一種。偉大な教師だった人間イエスに従うのが、本当のキリスト者だ。
ニーチェは言った、神は死んだ。ヨーロッパには田川建三のような学者が大勢いる。マルクス主義やファシズムや二度の世界大戦で、ヨーロッパのキリスト教はズタボロになった。フランスの知識人はカトリックなど田舎者の迷信だと思っている。アメリカや中南米のキリスト教がまだ元気なのが不思議なほどだ。
キリスト教の主流派は、オーソドックスもカトリックもプロテスタントも、昔ながらのドグマ(父と子と聖霊の三位一体)を信奉する。わが国の教会も大部分が主流派だ。だがおよそ二○○年前からアメリカやヨーロッパでは、ドグマを疑う動きが活発だ。パウロを悪魔と同類視して新約聖書の大部分を聖典とみなさないスウェーデンボリ教会。三位一体を認めないユニテリアン。ドグマにこだわらずに霊的体験を重視するクエーカー。神への信仰を問わないフリーメーソン。イエスを神の子でないと考えるエホバの証人。福音書と別にモルモンの書を聖典とするモルモン教。教祖の受けた啓示を聖書と同列に扱うクリスチャン・サイエンス、…。いずれも近代聖書学の衝撃で生まれた流派だと言っていい。
こういう「逸脱」に歯止めをかけたいのが、アメリカの「福音派」だ。聖書を「神の言葉」と堅く信じ、聖書以外の情報に耳を塞ぐ。その根底には、科学・合理主義と伝統の信仰との葛藤がある。誰もがまじめに悩んでいる。その悩みを内側から理解するカギを、『イエスという男』は教えてくれているのである。
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『イエスという男』
彼がどこから来たのかは知らない。気がついたら活動していたのだ…。「イエスはキリスト教のではなく、歴史の先駆者である」という視点から、歴史の本質を担った逆説的反逆者の生と死を綴る。作品社。3024円