『阿部一族・舞姫』
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『阿部一族・舞姫』
[レビュアー] 川本三郎(評論家)
明治天皇の死と、それに続く乃木大将夫妻の殉死は明治人、森鴎外に衝撃を与えた。若き日、ドイツに留学し西欧近代の知識を学んだ帰朝者、鴎外が武家社会の遺風に虚を突かれた。たじろいだ。
動揺収らぬままに、殉死する武士を描く『興津(おきつ)弥五右衛門の遺書』、次いで『阿部一族』『佐橋甚五郎』と史料に拠った歴史小説を書いた。近代文学のなかで歴史に材を取った小説はここに始まる。
失われたと思われていた武士の倫理が乃木の殉死によって、鴎外のなかによみがえった。主君のために死ぬことを厭わない。この精神の真髄を極めたい。津和野藩典医の子として生まれ育った鴎外のいわば武士の血が騒いだのだろう。
『阿部一族』は三代将軍、家光の時代の物語。熊本の細川藩の藩主、忠利が死去する。家臣が次々に腹を切ってあとを追う。ところが、当然、あとに続くと思われた側近の阿部弥一右衛門は生き残っている。生前、殿から殉死の許可が出なかったから仕方がない。
弥一右衛門は家中で忘恩の卑怯者と謗(そし)りを受ける。名誉を重んじる武士には耐えられない。ついに腹を切る。それでもいったん始まった批難はとまらない。
追いつめられた嗣子(しし)、権兵衛は忠利の一周忌の法要で、突然、思いあまって髻(もとどり)を切り位牌に供える。ただちに捕えられ縛首になる。武士が盗人のように縛首とは。それまで屈辱に耐えてきた阿部家の一統はついに怒りを抑えきれない。
屋敷にたてこもり討手にたちむかう。女や子供、老人を先に逝かせ、男たちが負けると分かっている戦いに挑む。
武士の意地である。屋敷内の戦いは悽愴苛烈。ギリシヤ悲劇を思わせる死闘を鴎外は感情を排した、石のように堅固な文章で綴ってゆく。三島由紀夫は鴎外をその簡潔鮮明な文章ゆえに「言葉の芸術家」と評した。鷗外は武士を讃美しているのではない。武士道の不条理を近代人の目で批判しているのでもない。ただ宿命に耐え死にゆく男たちを直視する。
時代劇の傑作「切腹」「上意討ち―拝領妻始末」を作った小林正樹監督は本作を映画化したかったが、成らなかった。