下水道システムでコレラ禍を解決

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下水道システムでコレラ禍を解決

[レビュアー] 山村杳樹(ライター)

 ウィリアム・キニモンド・バートン、一八五六年にエディンバラで生まれたこのスコットランド人が本書の主人公である。一八八七(明治二十)年に来日、三年の任期を三回も延長し、後に“バルトン先生”と愛称されることになる彼は、日本の近代化に献身した「お雇い外国人」の一人として歴史に記されている。

 専門は衛生工学。帝国大学工科大学衛生工学講座の初代教授に就任し日本における衛生工学の基礎を築くと同時に、内務省衛生局の顧問技師として首都東京など主要都市の下水道システムを設計した。

 来日の前年、日本ではコレラが猛威を振るい十一万人に及ぶ死者を出していた。首都東京の上下水道の整備は、コレラ禍に直面した日本の喫緊の課題となっていた。北海道・東北地方の衛生調査行に参加した彼は、当時、内務省衛生局に在籍した後藤新平と知り合う。

 バルトンは多面的な顔を持っていた。一つは、「名探偵シャーロック・ホームズ」の生みの親、アーサー・コナン・ドイルの「終生の友」だったこと。一つは写真技術研究者として日本に最新の写真技術を紹介し写真界に新風を巻き起こしたこと。更には、建築設計の知識を応用して東京最初の高層建築「浅草十二階凌雲閣」を設計したこと。私生活では荒川満津と結婚、愛嬢多満を可愛がった。後藤新平が台湾総督府民政長官に就任したのを機に、バルトンは当時、悪疫の島として怖れられていた台湾の衛生改善計画の立案に取り組んだ。が、英国への休暇帰国直前に急逝。享年四十三。著者は旧建設省土木研究所下水道部長などを経て、下水文化研究会を創設している。本書は、長年にわたる資料収集と現地調査により、不明の点が多かったバルトン先生の興味深い実像を克明に描き出している。日本の衛生工学の創成を担った先人を顕彰せんとする著者の篤い志も伝わってくる。世界各地から有能な若者たちが馳せ参じた明治という時代は、実に幸運だったといえる。

新潮社 新潮45
2016年12月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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