近現代史を描いて注目の作家が上梓した、心を守るワクチン本
[レビュアー] 石井千湖(書評家)
いい小説はワクチンのようなところがあると思う。すぐに役立つことはないけれど、記憶の底に沈んだ言葉や場面が、耐えがたい出来事に直面したとき、自分の心を守る抗体になる。『また、桜の国で』は、今できるだけ多くの人に手にとってほしいワクチン本だ。
主人公の棚倉慎(まこと)は、革命によって祖国に帰れなくなったロシア人の父と日本人の母の間に生まれた。一九二〇年、九歳の慎は自宅の庭でカミルという少年に出会う。彼は日本がシベリアで救出したポーランド人の戦災孤児だった。十八年後、慎はポーランドの日本大使館に書記生として派遣される。たった一日だけの友人になったカミルと、ともに聴いたショパンの「革命のエチュード」の思い出を抱いて。
スラヴ系の特徴が色濃く出た容姿のせいで、自分が日本人であるという意識を持てなかった慎を、首都ワルシャワの人々は疑いもなく日本人と見なし歓迎する。カミルと同じく日本に滞在した経験のある孤児たちが、日波友好のために力を尽くしていたからだ。外交官の織田寅之助は慎に〈人が、人としての良心や信念に従ってしたことは、必ず相手の中に残って、倍になって戻ってくるんだ〉と言う。やがてナチス・ドイツがポーランドに侵攻。大切な人たちを虐げる国と日本は同盟を結ぶ。慎は織田の言葉とポーランドに旅立つ前に父が言ったことを反芻しながら無力感を乗り越えていく。
ワルシャワ蜂起の地獄を目の当たりにした慎が、最後にあることを宣言するくだりは、アイデンティティとは国籍や人種が無条件に与えるものではなく、自らつかみとるものだと教えてくれる。美しいエピローグに辿り着いたとき、誰の本で読んだのか忘れたが、理想がなければ考える意味はない、という一文が思い浮かんだ。現実を直視するふりをした暴言に蹂躙されつつある世界でどう生きるか。骨太の理想がこの物語にはある。