『マクベス』
- 著者
- ウィリアム・シェイクスピア [著]/福田恆存 [訳]
- 出版社
- 新潮社
- ISBN
- 9784102020074
- 発売日
- 1969/09/02
- 価格
- 440円(税込)
『マクベス』
[レビュアー] 渡部昇一(上智大学名誉教授)
今から五十七、八年前のことである。オクスフォードに留学していた時、街の映画館で黒澤明監督の『蜘蛛巣城』という映画を見た。これはシェイクスピアの『マクベス』を戦国時代あたりの日本の大名と武将に置き換えて三船敏郎が主演者のマクベス、山田五十鈴がマクベス夫人であった。すばらしい迫力で感動した。終戦後まだ十数年しか経っておらず反日気分も街にはまだあったと思うのだが、映画館は満席で、見たという知人たちの評判も実によかった。
たまたま黒澤映画にも出たことのある女優の宮崎美子さんとシェイクスピアについて語る番組で御一緒した時に『蜘蛛巣城』の憶い出を語ったら、それは今でもDVDで出ていると言って送って下さった。それを早速老妻と一緒に見たら、半世紀以上前に見た映画の印象的な場面をよく覚えているのにびっくりした。
『マクベス』は主君を暗殺した武将マクベスとその夫人の話だ。最初に魔女が出てきてマクベスに二つの現実化してきたことと、まだ実現していない「王になる」という予言を混合して告げる。これでマクベスは迷い出し、王様を暗殺するに至る。この後でのマクベスの悩む弱い姿とマクベス夫人の強い姿が対照的だ。マクベスは「殺害した王の血のついた自分の手は大海の水で洗っても洗い切れまい」と嘆くのに、夫人は「そんなものは一寸洗って拭くだけでよい」と励ますのだ。
原作で魔女が出てくるところは、黒澤映画では、白髪の山姥が糸をつむぐ車を廻している場面になっている。運命はよく糸車にたとえられるから、こっちの方が原作より深みがあるように思われる。いずれにせよ、魔性の者の予言は三分の二ぐらいは本当なのに肝腎のところで信じた者を亡ぼすように出来ているのだ(現代の詐欺師のやり口と一脈通ずる)。
このドラマが進行するにつれて、マクベス夫妻の生活が寒酸としたものになってゆく姿が恐しいほど見事に示される(黒澤映画もここが感銘的)。あの強い夫人も弱くなり、洗い桶で手を洗い続けるのだ。道学者ならこのドラマは「謀叛の戒め」としてもいいだろう。