偽名で文通をつづける男女――「手紙の狂気」を描く傑作

レビュー

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綴られる愛人

『綴られる愛人』

著者
井上, 荒野, 1961-
出版社
集英社
ISBN
9784087710120
価格
1,650円(税込)

書籍情報:openBD

偽名による密やかな文通 炙り出される「手紙の狂気」

[レビュアー] 鴻巣友季子(翻訳家、エッセイスト)

 イギリスの初期の女性文学の多くは「待つ文学」だと言った評論家がいる。自由に動き回れなかった女性たちは手紙を書いて待ち、その待ち時間に物語が生まれた。文は届いたのか? 読んでくれたのか? 相手が読んでいると分かっていたら、『あしながおじさん』の手紙はあんなに面白くひねくれず、恋情をあんなに手紙に縷々綴らなければ、ウエルテルは死なずに済んだかもしれない。手紙というのは、時に情動を煽り、人を狂おしくさせる―そんな「手紙の狂気」を描いた傑作が、『綴られる愛人』だ。

 序盤、いきなり衝撃的な文通の内容が開示される。ある人間の殺害をめぐって、男女の間で迂遠な瀬踏みが行われている模様。ここから時間は過去にさかのぼり、男女が知り合った経緯が語られる。

 女は三十五歳の人気作家、男は「三流大学」の二十一歳の学生。生活圏では出会いそうにないふたりだが、互いに鬱屈を抱え、「綴り人の会」という古風な文通会に登録する。相手の連絡先は直接わからないし、大半は偽名を使っている。女は二十代の主婦「凛子」、男は三十代の商社マン「クモオ」と名乗って、密やかな文通が始まった。

 凛子の文面から浮かびあがるのは、籠の鳥のような妻の姿と、暴力をふるう夫の姿だ。一方、クモオは大きな海外取引を任せられ、恋人に倦み始めた男を演じる。どちらが綴る嘘のなかにも、真実はいくらか含まれている。編集者である支配的な夫への憎悪。同世代の恋人とのすれ違い。ふたりは文通とその相手を欲して次第に依存し、いつしか手紙の世界がリアルワールドになっていく。どこまでが演技で本気なのか、もはや本人にも虚実の区別がつかない。凛子が見知らぬ子どもの腕を掴む場面が怖い。

 さて、ここに綴られているものは、本当はなんなのか? 最後の最後まで、二転三転で何度もぞっとさせる荒野文学の真骨頂だ。

新潮社 週刊新潮
2016年12月1日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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