古代日本の姿を通し、現代に通じる日本人のこころがみえてくる――『風土記』研究のエッセンス

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風土記 : 日本人の感覚を読む

『風土記 : 日本人の感覚を読む』

著者
橋本, 雅之, 1957-
出版社
KADOKAWA
ISBN
9784047035829
価格
1,760円(税込)

書籍情報:openBD

『風土記』研究のエッセンス

[レビュアー] 上野誠(奈良大学文学部教授)

「古典とは、名前はよく知っているが、読んだことのない書物である」とは、誰が言ったか忘れたが……、けだし名言である。その「古典」のなかでも、ことのほか読んだ人が少ない古典がある。『風土記』だ。八世紀の律令国家は、『古事記』『日本書紀』の編纂を通じて国家の歴史を内外に明らかにしようとした。この国は誰がいかなる理由によって治めるのか、われわれはなぜこの島国に住んでいるのかということを説明するために書かれた書物なのである。対して、『風土記』は、一つの地誌である。ところが、地誌といっても『風土記』のそれは、地形や山川草木の記述にとどまるものではない。その土地の古老たちの言い伝えも記録されているのだ。なぜ、古老たちの言い伝えが大切であったかということについては、本書があますところなく説明してくれている。ここは、読んでのお楽しみだ。

 著者、橋本雅之は、今日の風土記研究のリーダーのひとりであり、重厚な研究で知られる国文学者である。くやしいことだが、同じ国文学者の私が本書を読んでも、その視野の広さに圧倒されるばかりであった。選書は、最新、最高の知のエッセンスをわかりやすく伝えることを目的とする書物である。本書は、まさしく、風土記研究の今を伝える最高の書だといえるだろう。

 土地には、その土地の歴史があり、語りというものがある。たとえば、『風土記』のヤマトタケルは、ヤマトタケル天皇と称されることがある。つまり、土地の語りでは、天皇なのである。また、『古事記』や『日本書紀』の神々の系譜と、『風土記』のそれが異なることも多い。本書は、その典型例を取り上げて、国家の神話とは異なる地域ごとの神話の存在を明らかにする。

 私の関心からいえば、本書の『風土記』の歴史認識は圧巻であった。『古事記』『日本書紀』の歴史認識は、いわば直線的な時間軸で構成されている。「神代」の時代から「いにしへ」と呼ばれる昔、そして「今」の時代へと川の流れのように続く歴史である。『古事記』は、上つ巻→中つ巻→下つ巻へと続くが、これは上流→中流→下流のように川の流れに擬える歴史認識だ。

 ところが、『風土記』の歴史軸は違う。むしろ、中心にあるのは、「今」なのである。なぜ今、この山は、あたかも船を伏せたようなかたちなのか、ということを神話で説明するわけだから、歴史の中心にあるのは、「今」と「ここ」と「自分」なのである。神や天皇が、この地にやって来て、この土地をこう呼んだ。以来、この土地は、こういう地名で呼ばれているのだ、というように、地名の起源を説明するのである。『古事記』は紀伝体なので、物語を一つの単位として、それを古い順に並べている。また『日本書紀』は、編年体なので、事項を一つの単位として古い順に並べている。『古事記』『日本書紀』の歴史は、直線的、不可逆的時間なのである。ところが、『風土記』の説く歴史は、その土地に神や天皇がやって来た時点が「いにしへ」ないし「昔」で、「今」が対置されている。大切なのは、今あるかたちの起源なのである。その点を橋本は、興味深い例を挙げて見事に説明しているのである。

 と、ここまで書いたところで、私はこんなことを思い起こした。履歴書を書く場合は、卒業の年月日などを正確に記す必要がある。これがなかなか大変だ。タンスの中から卒業証書をはじめとする書類などを探したりして、ようやく、正確に書くことができる。しかし、考えてみれば、記憶のなかでは、みんな昔語りの一齣ではないか。むしろ、大切なことは、自分の「今」にとって過去がどれほど大きなインパクトを与えているのかということだけなのである。しかも、それは人によってまったくといってよいほど異なる。人によっては、一枚の絵を見たことで、一生が決まることだってある。とすれば、『風土記』の歴史認識の方が、個人や地域の歴史認識としては、より原初的なものではないのか……。私は、そんなことを思いながら、読了した。

 ◇角川選書◇

KADOKAWA 本の旅人
2016年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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